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二代目宅見組の入江禎組長は、五代目山口組若頭だった宅見勝組長が率いた初代宅見組で幹部を歴任し、1997年に宅見組長が内紛で銃撃されて亡くなった後、二代目宅見組組長を継承。五代目山口組の直参に昇格し、六代目山口組体制で総本部長に就任。山口組のナンバー3となった。


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福井組で渡世入り、宅見組へ移籍

入江禎組長は1944年12月生まれ、愛媛県宇和島市の出身。地元の高校を中退した後、大阪に出てきて賭場に出入りするようになり、宅見組の宅見勝組長が当時所属していた、三代目山口組『福井組』の関係者と知り合い、その縁で組員となり渡世開始。

福井組の福井英夫組長は、1949年頃に三代目山口組に加入した藤村唯夫会長が率いる、愚連隊の流れを汲む南道会の出身。南道会は大阪で勢力を拡大したが、1962年に解散し、南道会の幹部だった福井組長ら8人が三代目山口組の直参に昇格した。

入江組長は、同じ福井組に所属していた宅見組長と行動を共にするようになり、福井組では幹部を務めた。1978年に宅見組長が内部昇格で三代目山口組の直参に昇格すると、入江組長は福井組から宅見組へ移籍。宅見組若頭補佐に起用され、自身で勝心連合を結成した。

1975~1978年の三代目山口組と松田組の『大阪戦争』、1984~1989年の四代目山口組と一和会の『山一抗争』で、入江組長は功績を挙げているとされる。

その後、宅見組本部長を経て、1984年には宅見組若頭に就任した。



宅見組長の右腕、直参昇格を固辞

宅見組の宅見勝組長は、大阪の独立組織であった土井組『川北組』で渡世を開始し、川北組若頭を務めた。1962年に土井組が解散すると、福井組長が宅見組長をスカウト。宅見組長は福井組若頭補佐を経て若頭に就任し、自身で宅見組を結成。宅見組は三重県に本部を置いていたが、後に大阪のミナミを拠点とした。

宅見組長は1978年に三代目山口組の直参に昇格し、1983年に三代目山口組若頭補佐に就いた。1984年からの四代目山口組体制で若頭補佐、1989年からの五代目山口組体制で若頭に就任し、山口組のナンバー2に上り詰めた。

宅見組長は権謀術数に長け、多数派工作を駆使し、意中の人物を当代に担ぎ上げ、山口組内で主流派となり、本家若頭のポストを獲得し、内外の数々な抗争を勝ち抜き、山口組の東京進出に弾みをつけ、山口組を構成員3万人の全国トップの組織へと昇華させた。

経済面でも、土地開発や株運用で莫大な資産を形成し、数1000億円を動かす日本トップの経済ヤクザとなるなど、組織の内外で卓越した手腕を発揮した。自身らが擁立した五代目山口組の渡辺芳則組長をも意のままに操り、若頭でありながら五代目山口組の実権を握るまでに至った。

入江組長は、多忙を極めた宅見組長に代わって組織の対外的な交渉などを行い、宅見組の運営を実質的に仕切った。入江組長の功績もあって、宅見組は勢力を拡大して行ったとされる。

宅見組長は入江組長の実績を高く評価し、直参昇格を何度も持ちかけたが、入江組長は「ずっと親分について行く」として、直参昇格を固辞していたと伝えられる。


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山口組若頭を務めた宅見組長



宅見組長銃撃事件、親分を失う

五代目山口組若頭補佐の中野太郎(中野会)会長は、権謀術数を得意とし、経済力にモノを言わせ、渡辺五代目までをも蔑ろにする宅見組長を嫌っていた。中野会長は渡辺五代目に忠誠を誓っており、宅見組長との仲は険悪だったとされる。

1996年07月、京都府八幡市にある散髪屋で髪を切っている最中の中野会長が、会津小鉄会の組員らに銃撃される事件が発生。ボディーガード役の中野会組員が応戦して襲撃犯を掃討し、中野会長は無傷で難を逃れた。

襲撃に失敗した会津小鉄会は、すぐさま宅見組長らに謝罪をし、指を詰めて慰謝料数億円を添え、和解を申し入れたとされる。宅見組長はすぐに詫びを受け入れ、手打ちが完了した。五代目山口組の最高幹部が直接命を狙われたにも関わらず、一発の返しもしないままスピード決着することとなった。

中野会長は、当事者を抜きにして和解を受け入れた宅見組長に対して不満を募らせ、事件の背景に疑心暗鬼を抱いたという。中野会長は、宅見組長が以前から渡辺五代目を組長の座から降ろすクーデターを計画していて、渡辺五代目に忠誠を誓う自身が邪魔だったため、会津小鉄会を使って始末しようとしたのではないかという考えに至り、2人の確執は決定的なものになったとされる。

そして1997年08月、神戸のホテルのティーラウンジで他の最高幹部と昼食を取っていた宅見組長は、近づいてきたヒットマン4人組に10発以上も拳銃を発砲され、1時間後に出血多量で亡くなった。その際、流れ弾に当たった歯科医師の男性が重体となった。

中野会長が率いる中野会の犯行だと判明すると、五代目山口組執行部は同じ組織の若頭を狙うという大罪を犯した中野会長を破門処分としたが、数日後に歯科医師の男性が亡くなったことを受け、絶縁処分に切り替えた。

事件当初、中野会長は「うちはやっていない。指令も出していない」と言っていたが、後に出版された著書などによると、宅見組長のワンマンに嫌気が差した渡辺五代目が、自身の親衛隊であり宅見組長を嫌う中野会長に宅見襲撃を執拗に指示し、中野会長が幹部にその話を相談したことで、中野会幹部らが実行した事件なのだという。

入江組長は、亡くなった宅見組長の跡を継ぎ、1997年10月に二代目宅見組組長を継承。五代目山口組の直参に昇格した。


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宅見組長が銃撃された神戸のホテル


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中野会との抗争、本家執行部入り

宅見組長が銃撃されて亡くなって以降、宅見組は五代目山口組を絶縁され独立組織となった中野会に対し、怒涛の報復を展開した。宅見組系組員らが多数の中野会系幹部を襲撃し、中野会長の自宅に火炎瓶が投げ込まれるなど、約40件もの報復事件が発生した。

1999年09月に中野会若頭が大阪市生野区の麻雀店で、2002年04月には中野会副会長が沖縄県那覇市で車で走行中、それぞれ銃撃されて亡くなった。

宅見組長銃撃事件のヒットマン達は、4人のうち3人は逮捕され、それぞれ懲役20年が確定。首謀者とされる幹部は韓国で変死し、逃亡していたヒットマン1人は遺体で発見され、最後まで逃亡していた現場指揮役の組長は、16年間の逃亡の末に逮捕され、無期懲役となっている。

入江組長ら宅見組系勢力が中心となって中野会への報復を繰り返した結果、多数の中野会組員が中野会を離脱し、五代目山口組系組織などへ移籍。中野会は一度もやり返すことなく弱体化し、中野会長は2005年08月、渡辺五代目が引退した数日後に引退。中野会は解散した。

入江組長は、2001年12月に五代目山口組総本部当番責任者に就任し、五代目山口組の終盤の2005年06月には五代目山口組若頭補佐に抜擢され、山口組本家執行部入りした。


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山口組を絶縁された中野会長



山口組の最高幹部となる

2005年08月、五代目山口組若頭に就任していた司忍(弘道会)会長が六代目山口組組長を襲名し、六代目山口組が発足。入江組長は六代目山口組総本部長に起用され、六代目山口組のナンバー3として重責を担った。

2005年12月に司六代目がボディーガード拳銃所持事件で服役することとなり、組長不在の山口組を取り仕切る六代目山口組若頭の高山清司(二代目弘道会)会長を補佐した。2006年には、週刊アサヒ芸能に入江組長のインタビューが掲載された。

入江組長は、普段は物腰が柔らかく温厚で、堅気にも慕われるタイプだそうだが、筋が通らないことには頑なに引かない芯の強さがあり、これまでにも他団体との交渉などで外交手腕を発揮して来たとされる。一見は温厚そうに見えるが、大阪戦争や山一抗争では活躍しており、武闘派の一面も持ち合わせているという。

2010年12月、入江組長は抗争で服役した幹部に報奨金を与えたとして、暴力団対策法違反(賞揚等禁止命令違反)で逮捕された。1999年09月に中野会若頭が大阪市生野区の麻雀店で銃撃されて亡くなった事件で服役した、二代目宅見組幹部の内縁の妻の口座に毎月20万円ほどを報奨金として振り込んでいたという。その後、入江組長は懲役10箇月・執行猶予3年の有罪が確定している。

2013年10月に約8年務めた六代目山口組総本部長を退任し、六代目山口組舎弟頭に就任。2013年12月には米財務省が、入江組長が国外の著しい犯罪組織とその支持者であるとして、米国司法権の及ぶ範囲の資産凍結とともに、米国民との取引禁止させる制裁対象とした。


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司六代目らと神社に初詣する入江組長



 ⇒ 入江組長の経歴 後編 




五代目山口組 宅見勝若頭の生涯 ~暗殺までの15328日~


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