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2020年09月01日、三代目山口組若頭補佐や一和会理事長を務めた加茂田重政元組長が亡くなったと、関係者が明かした。90歳だった。

加茂田元組長は1956年に三代目山口組の田岡一雄組長と盃を交わし、若頭補佐や組長代行補佐を務めたが、四代目山口組組長の座をめぐって1984年に山口組を離脱し、離脱組で一和会を結成。一和会理事長に就いていたが、四代目山口組との抗争に敗れ、1988年に渡世から引退していた。

引退してからも加茂田元組長の活躍は語り継がれ、2016年には書籍『烈侠 -山口組 史上最大の抗争と激動の半生』を発刊し話題を呼んだ。


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菅原文太、若山富三郎らと交流のあった山口組元大幹部「加茂田重政」の死
2020年9月2日掲載

(デイリー新潮) https://www.dailyshincho.jp/article/2020/09021101/?all=1










このニュースのまとめ

  • 2020年09月01日、元三代目山口組若頭補佐で加茂田組組長だった加茂田重政が、兵庫県神戸市の病院で亡くなった。90歳だった。
  • 葬儀は家族葬で営まれるとみられている。



加茂田重政元組長の経歴

加茂田元組長は1930年07月生まれ、兵庫県神戸市長田区の出身。父親は二代目山口組若中だった加茂田松太郎で、弟の加茂田勲武(加茂田組副組長)、弟の前田登(加茂田組本部長)、いとこの加茂田俊治(三代目山口組若中)もヤクザという極道一家。

14歳頃に太平洋戦争に少年兵として従軍し、輸送船のコックとなった。終戦後は愚連隊『わさび会』の客分となり、自身も『加茂田会』を結成。遊技場の用心棒を務める傍ら、ケンカに明け暮れた。

1956年頃、父親の推薦で三代目山口組の田岡一雄組長と盃を交わし、26歳の若さで三代目山口組若中となって稼業入り。後に加茂田会を加茂田組に改称した。



数々の抗争に参戦、長期服役

加茂田組は数々の抗争に参戦していて、抗争で加茂田組の名を売り、武闘派として恐れられ、勢力を拡大して行った。

1956年、神戸三宮のパチンコ利権をめぐって神戸の『五島組』と加茂田組『神竜会』が抗争(三宮事件)。1960年、大阪ミナミのキャバレーで田岡組長らと大阪の愚連隊『明友会』幹部らがトラブルになり、抗争に発展(明友会事件)。加茂田組は抗争に参戦した。

明友会事件で加茂田組長は逮捕され、三宮事件も合わせて1962年から11年間服役し、1973年に出所した。

出所後も、1977年に愛媛県松山市の『兵藤会』と加茂田組『木村組(後の木村會)』が抗争(第二次松山抗争)。木村組事務所に手榴弾が投げ込まれ、木村組は兵藤会系事務所にダンプカーで突っ込んだ。組員同士が拳銃で撃ちあう事態に発展するなど、大規模な抗争となった。

他にも、山口組の出身母体である神戸の『大島組』との抗争や、北海道の博徒親睦団体『北海道同行会』との抗争、大阪の『淡熊会』などとも抗争している。



加茂田軍団の隆盛



わさび会の頃の加茂田会は数10人ほどの組織だったが、抗争で名を売り服役中にも組織は拡大し続け、加茂田組は最盛期には構成員が4000人とも5000人とも言われるほどの大所帯となり、三代目山口組の傘下組織で最大の勢力を誇ったとされる。

神戸市長田区番町の出身である三代目山口組の直系組長らで親睦会『番町会』を結成し、加茂田組長が会長に就任。加茂田組は番町で地蔵盆を毎年主催していて、地元住民が大勢参加し、有名芸能人などが出席するなど、盛大な祭りだったという。

加茂田組長は、映画スター、歌手、吉本芸人、映画監督やプロデューサー、横綱など、多数の大物芸能人らと親交があったとされる。当時はヤクザと芸能人の付き合いが当たり前の時代だった。加茂田組長の息子の結婚式の司会は、お笑いビッグ3のうちの1人が務めたとされる。

1977年には三代目山口組若頭補佐に起用され、執行部の一員として組織運営の一翼を担った。

1981年頃、戦後のフィクサーであった田中清玄に誘われ、政界進出を計ろうとする。政治団体を立ち上げ、参議院議員選挙に出馬する予定だったが、組内から異論が相次ぎ断念した。



四代目山口組組長の座をめぐり内紛



1981年07月に三代目山口組の田岡一雄組長が亡くなり、跡目の山本健一若頭も1982年02月に病没。三代目山口組は組長と跡目が不在という事態になる。1982年06月に山本広若頭補佐が組長代行、竹中正久若頭補佐が若頭に就任し、加茂田組長は組長代行補佐に就き、三代目山口組は暫定体制で継続する。

1982年09月に山広代行が四代目山口組組長に立候補すると、竹中若頭や幹部らが山広代行の組長就任に反発し、いったん組長就任の話は立ち消えた。山広代行の組長就任に反対する勢力が竹中若頭を推し、三代目山口組の直系組長は山広派と竹中派、中間派に分かれることとなる。

田岡組長の妻である田岡文子未亡人も山広代行の組長就任を拒み、竹中若頭を組長に擁立。1984年に文子未亡人は竹中若頭の四代目襲名は田岡組長の遺志であるとし、竹中若頭の四代目襲名が決まった。



山口組から離脱、一和会を結成



天下取りに敗れた山広代行は、加茂田組長ら複数の直系組長を誘って山口組を離脱し、マスコミを集めて記者会見を行った。離脱組で新組織『一和会』を結成し、加茂田組長は一和会理事長兼副会長に就任。一和会のナンバー2となった。

竹中組長をトップとして発足した四代目山口組は、一和会への義絶状を送った。四代目山口組と一和会との間で『山一抗争』と呼ばれる抗争が勃発し、抗争事件が頻発することになる。加茂田組は積極的に参戦した。

この頃、加茂田組長はテレビのインタビュー取材などに応じており、その発言が物議を醸したこともあったという。一和会本部でのインタビューで、「来たらこっちもやります。ケンカはします。それはハッキリ言うときます。来たらね」と言い、抗争も辞さない考えであることをアピールした。

他にも、「私が怖がっとんのはね、何かヤクザの法律が出来ると思うんですよ。法律をこしらえてそれを適用されたら、ヤクザは食うて行けんぞと。まぁ、ヤクザみたいなのはおらんでもいいんですわ、ほんまはね」と発言しており、1991年に制定されることになる暴力団対策法を予見していたとみられる。

山一抗争のさなかの1985年、北海道で稲川会『岸本組』系『星川組』と加茂田組『花田組』が抗争(北見抗争)。相手は山一抗争の仲裁をしていた稲川会ということもあり、一和会執行部らは抗争を止めるよう加茂田組長を説得したが、加茂田組は手打ち破りまでして星川組長を銃撃した。



山一抗争に敗北、加茂田組解散



山口組から離脱した当初は、一和会の方が組員の数で優勢だとみられていたが、一和会発足前に山広派だった複数の直系組長が参加を見送っていた。四代目山口組からの切り崩しで一和会は劣勢になり、引退する者や山口組に出戻る者が相次いだ。

劣勢に立たされた一和会は、1985年01月に四代目山口組の竹中組長、中山若頭、南若中を銃撃。3名とも息を引き取った。しかし、一和会が優勢になることは無く、ナンバー1、2を一気に失った四代目山口組は一和会へ猛攻し、全面抗争に発展する。

一和会幹部や傘下組員らが襲撃される事件が多発し、一和会の直系組長らが次々に脱落、もしくは葬られ、一和会の敗戦は確実視された。

山一抗争中の1986年末、賭博の罪で加茂田組長に懲役1年の判決が下され、服役。1988年初頭に出所した。出所後の1988年05月、加茂田組長は引退し、加茂田組は解散した。解散時の加茂田組の組員は20人弱だったという。

その後、稲川会の稲川聖城総裁の仲裁により、1989年03月に一和会の山本広会長は引退し、一和会は解散。山広会長は四代目山口組本家へ出向き、正式に謝罪し、山一抗争は終結した。加茂田組を含む一和会の傘下組員らの多くは山口組へ出戻った。



引退後

ヤクザから引退した後、加茂田元組長は韓国に数年間滞在し、その後に東京で数年間滞在した。東京在住時に低体温で倒れ、集中治療室で治療し一命を取り留めた。医者から「戦時中に火傷した痕を放っておいたらガンになる」と言われ、左足を切断。

2016年07月、著書『烈侠 -山口組 史上最大の抗争と激動の半生』を刊行。大物ヤクザの自叙伝として話題を呼び、2017年05月には烈侠に載せきれなかった写真などを集めた『烈侠外伝 -秘蔵写真で振り返る加茂田組と昭和裏面史』も発売した。

2020年09月01日、加茂田元組長は逝去。享年90歳。



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