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福岡県北九州市に本部を置く五代目工藤會の経歴。工藤會は 工藤組 ⇒ 工藤会 ⇒ 工藤連合草野一家 ⇒ 工藤會 と変遷していて、工藤玄治初代 ⇒ 草野高明二代目 ⇒ 溝下秀男三代目 ⇒ 野村悟四代目 ⇒ 田上文雄五代目 と系譜が続いている。

九州で最大規模の勢力を誇る暴力団組織であったが、市民への襲撃事件を多数起こし、五代目工藤會の野村悟総裁と田上文雄会長は逮捕・起訴され、死刑と無期懲役の判決が下された。


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工藤玄治初代、九州ヤクザの長老

工藤玄治初代は1910年生まれ、福岡県行橋市の出身。16歳頃から西日本各地の賭博場に出入りする博徒だったという。恩義があった小倉の親分が引退すると、自身で工藤組を名乗って渡世を開始した。

子分は後に二代目となる草野高明ただ1人で、工藤初代の姐さんと合わせて3人だけで四畳半一間からスタートしたとされ、終戦後の1946年頃に正式に工藤組を旗揚げした。

工藤組は小倉競輪場の警備を任されることとなった。当時は公営ギャンブルが再開して盛り上がって来た頃で、利用客が増えてトラブルも頻発していたため、ヤクザに警備を担わせることもあったという。小倉競輪場の警備を担ったことで、草野若頭の配下に若い衆が増え、工藤組は勢力を増大する。

1950年代には工藤初代は草野若頭を引き連れ、後に稲川会総裁となる稲川聖城が神奈川県で開いた賭場に顔を出すなど、他組織との交流も深めて行った。



三代目山口組との抗争

1950年、福岡県若松市(現・北九州市)の暴力団である梶原組の組員が、草野若頭の弟を刃物で刺す事件が発生。草野若頭の弟は亡くなった。草野組と梶原組は手打ちせず、その後も対立が続いた。

1960年代、三代目山口組が全国進出を展開すると、三代目山口組若頭であった地道行雄(地道組)組長が北九州市にある暴力団を次々と傘下に収め、工藤組と対立していた梶原組も1963年05月に地道組に加入。工藤組と三代目山口組との間で不穏な空気が流れることとなる。

1963年、工藤組は北九州市でのプロレスの興行や、興行事務所の場所などを巡って三代目山口組とトラブルとなった。三代目山口組『菅谷組』系組員が工藤組の最高幹部を銃撃し、最高幹部は亡くなる。報復として工藤組組員らが三代目山口組系組員2人を拉致し、河原で暴行して紫川に投げ込み、組員2人は亡くなった。

この『紫川事件』で、草野若頭は犯行を教唆したとして逮捕され、懲役10年の判決を受けた。



工藤初代が草野若頭を破門処分

判決が出る前の1966年、草野若頭は拘置所で工藤組脱退と草野組解散を表明。これは工藤組に警察の取り締まりが及ばないように配慮したものだったが、帰りを待っていた工藤初代は、話を聞かされていなかったため裏切り行為だと思い、草野若頭を破門した。ボタンの掛け違いによって、2人の関係は拗れて行った。

1970年に工藤組は工藤会に改名し、反山口組の親睦団体である『関西二十日会』の結成に参加。工藤初代は関西二十日会の長老格であった。

草野元若頭は長期服役を経て、1977年05月に出所。出所の際は無断で脱退していたため工藤組からの出迎えはなく、対立していたはずの三代目山口組が出迎え、田岡一雄組長が放免祝いを申し出た。

草野元若頭は三代目山口組から組織への加入を持ちかけられたが、断ったという。加入はしなかったが、三代目山口組との距離は縮まり、親山口組となった。

1978年10月頃、草野元若頭は小倉北区で草野一家を立ち上げ、独立組織として再出発した。立ち上げの際には工藤初代と会談していて、工藤初代は工藤組の縄張りに進出しないことと、シノギは賭博のみ行うことを条件として、草野一家の発足を許可したという。

しかし、縄張りが競合するなどもあって、1979年頃から工藤会と草野一家の間で衝突が起こるようになった。草野一家の組員は200人以上いて、工藤会よりも勢力で上回っていた。



工藤会と草野一家の抗争

1979年頃、工藤会副理事長であった田中新太郎(田中組)組長が率いる田中組の組員が、後に三代目となる草野一家幹部であった溝下秀男(極政会)会長を襲撃する事件が発生。溝下会長は怪我を負った。

1979年12月、草野組長は三代目山口組若中の伊豆健児(伊豆組)組長と兄弟盃を交わした。三代目山口組と抗争した工藤会にとっては、草野一家が親山口組となっていることは不愉快であったとみられる。

草野組長と伊豆組長の兄弟盃の血縁式が行われた2日後、極政会組員2人が、田中組長の愛人が住む小倉にあるマンションで田中組長を銃撃する事件が発生。田中組長は亡くなった。田中組長が兄弟盃の血縁式に出席しなかったことが、事件の背景にあるとみられている。

田中組長が亡くなったことによって抗争は激化し、双方の組事務所が銃撃されたり、組員が襲撃されるなどの事件が相次いだ。

1981年02月、工藤会理事長の矢坂顕(矢坂組)組長と草野一家若頭の佐古野繁樹(大東亜会)会長が、小倉の繁華街である堺町で偶然にも遭遇。両組長ともに若い衆を連れており、酔っていた両組長は口論となり、殴り合いを経て銃撃戦に発展するという『堺町事件』が発生した。

矢坂組組員が佐古野会長を拳銃で銃撃し、撃たれた佐古野会長も矢坂組長を銃撃した。両組長は病院に運び込まれたが、矢坂組長と佐古野会長の2人とも亡くなるという結末を迎える。

堺町事件をきっかけに抗争はさらに激しくなり、双方の組事務所などに多数の銃弾が撃ち込まれる事態となった。

工藤会には反山口組の関西二十日会系の組長らが、草野一家には三代目山口組の石井組や伊豆組などが支援し、親山口組対反山口組という九州代理戦争の様相を呈していた。

堺町事件から約3週間後、工藤初代と草野組長の双方と親交があった稲川会の稲川聖城会長が仲裁に入り、手打ち式が行われて抗争は終結した。稲川会長は手打ちの際、工藤初代は草野組長の破門を解き、ゆくゆくは工藤会の跡目を草野に譲るという条件を出したとされる。



草野高明二代目、信念を貫く侠客

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抗争終結から約6年後の1987年06月、工藤会と草野一家は合流し、工藤連合草野一家が発足した。
  • 工藤玄治総裁(工藤派)
  • 草野高明総長(草野派)
  • 溝下秀男若頭(草野派)
  • 天野義孝舎弟頭(草野派)
  • 野村悟本部長(工藤派)
工藤初代が総裁に上がり、草野組長が総長に就任した。合流時の勢力は、工藤会が傘下9団体で組員約200人、草野一家は傘下26団体で組員約600人だったとみられる。

草野高明二代目は1922年生まれ、福岡県小倉市(現・北九州市)の出身。子供の頃からケンカに明け暮れていたとされ、工藤初代と縁を持ち、工藤組の結成に参加。工藤組で若頭を務める一方、自身で草野組を率いた。

草野二代目は工藤初代への忠誠心を貫き、三代目山口組から勧誘された際、「親分は生涯工藤玄治一人」と言って断ったという。工藤会を脱退していた時期には、「ケンカが起きる時もあろうが、工藤のオヤジには絶対に弓を引かない」などと公言し、抗争の最中でも工藤初代の姐さんにお金を渡しに行ったこともあったという。

また、警察の取り調べで、職業欄に『暴力団』と書かれていた時には、「暴力団やない、侠客と書け!」と怒鳴ったこともあったとされる。



溝下秀男三代目、多彩なニューリーダー

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1990年12月に工藤連合草野一家が代替わりし、二代目工藤連合草野一家が発足。
  • 工藤玄治名誉総裁(工藤派)
  • 草野高明総裁(草野派)
  • 溝下秀男総長(草野派)
  • 天野義孝総長代行(草野派)
  • 野村悟若頭(工藤派)
工藤初代が名誉総裁、草野二代目が総裁に上がり、溝下秀男若頭が総長に就任した。代替わりした約4箇月後の1991年04月、草野二代目は亡くなった。

溝下秀男三代目は1946年生まれ、福岡県嘉穂郡頴田村(現・飯塚市)の出身。実家は極貧の母子家庭だったという。若い頃に北九州市門司区で活動する大長組の大長健一組長の自宅に住み込んでいた時代もあったとされるが、独立して1970年頃に溝下組を結成。

賭場荒らしをした際に草野二代目に諌められたのが縁で、1979年に草野二代目と盃を交わして草野一家に加入したとされる。1980年08月には草野一家若頭に就任し、自身が率いる溝下組を極政会に改称した。

1986年頃から勃発した四代目山口組と福岡県久留米市の道仁会との『山道抗争』で、溝下三代目は草野二代目や太州会の太田州春会長の意向を受け、和解工作に奔走したとされる。1987年の工藤会と草野一家の合併では、組織の一本化に尽力したとされる。

1987年06月に工藤会と草野一家が合流して工藤連合草野一家が発足すると若頭に就任し、工藤連合草野一家の最高幹部となった。1990年12月に草野二代目が総裁に上がると、溝下三代目が二代目工藤連合草野一家総長を襲名した。

1991年01月、溝下三代目は広島県広島市に本部を置く四代目共政会の沖本勲会長と、五分の兄弟盃を交わしている。

二代目工藤連合草野一家は、加盟していた関西二十日会が1988年に解散し、後身の西日本二十日会も1991年に解散した後、1995年08月に二代目工藤連合草野一家、福岡県久留米市の道仁会、福岡県田川市の太州会の3団体で九州暴力団の親睦団体『三社会』を結成。2005年10月に熊本県熊本市の熊本會が加入して『四社会』となっている。

1992年に暴力団対策法が施行され、二代目工藤連合草野一家を含む24団体が指定暴力団となった。

1996年10月頃、工藤初代は亡くなった。

1999年01月、溝下三代目は二代目工藤連合草野一家を三代目工藤會に改称。工藤玄治を初代、草野高明を二代目、自身を三代目とし、工藤組からの系譜を明確にした。また、大広間を有する『工藤会館』を建設して本部事務所にしたり、『工藤會憲法』を制定するなど、組織の改革を進めていった。

溝下三代目は実話系週刊誌でコラムを連載して評判を呼び、1996年に著書『極道一番搾り 親分、こらえてつかあさい』、1998年に『愛嬌一本締め 極道の世界 本日も反省の色なしちゃ』を刊行。2001年には作家の宮崎学との対談本『任侠事始め』も発売する。

格闘技やジェットスキーなどのスポーツや、水墨画、油絵、書、篆刻など芸術作品の創作の他、猿や猪や蛇などの動物を飼ったり、事務所にコンピューターを導入するなど、多種多様な趣味を持ち合わせていた。

2000年01月、溝下三代目は跡目を理事長であった野村悟(三代目田中組)組長に譲り、四代目工藤會会長が発足。溝下三代目は四代目工藤會総裁に上がった。

その後、2006年02月に溝下三代目は四代目工藤會名誉顧問となり、2008年07月に亡くなった。肝臓移植の手術を受けており、術後の経過不良が原因で亡くなったと言われている。



 ⇒ 工藤會の経歴シリーズ 










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