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五代目工藤會の経歴その②。工藤會は野村悟四代目の時代に隆盛を極め、全構成員は1200人を超え、九州で最大規模の暴力団組織となって全国にその名を轟かせた。野村四代目は北九州のドンとして君臨し、五代目体制で総裁となってからも引き続き権力を維持した。


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野村悟四代目、北九州のドン

2000年01月、溝下三代目は跡目を理事長であった野村悟(三代目田中組)組長に譲り、四代目工藤會会長が発足。溝下三代目は四代目工藤會総裁に上がった。

野村四代目は1946年生まれ、福岡県小倉市(現・北九州市)の出身。両親は裕福な農家で、北九州市に田んぼや山林など多数の不動産を所有していたという。

中学の頃から不良となり、自動車の窃盗などを繰り返して少年院に送られた。その後、博打を始め、賭場に出入りするようなった。10代の頃に地元だけではなく、博多、大阪、京都、東京などに遠征して賭場を回っていたという。

大負けした時には親の土地を売って穴埋めをしたこともあるほど、博打にのめり込んで行ったという。

1970年代前半、26~27歳の頃に工藤会『田中組』組員であった木村清純から盃を受け、工藤会に加入。シノギは主に博打で、繁華街にある寿司屋や自宅などで賭場を開帳し、負けた客へ資金の貸し付けも行っていたという。

野村四代目の賭場では、暴力団関係者だけでなく経営者や市議会議員なども博打に興じていたという。一晩の稼ぎは平均2~3000千万円で、最高で2億円ほどあったという。博打や不動産の売買などで蓄えた豊富な資金を背景に、組織内でのし上がって行く。

1979年12月に工藤会副理事長であった田中新太郎(田中組)組長が、草野一家『極政会』組員に銃撃されて亡くなると、野村四代目の親分であった木村清純が1981年に二代目田中組組長を継承。野村四代目は二代目田中組若頭に就任した。

1986年頃に木村組長が引退すると、野村四代目が三代目田中組組長を継承。1987年06月に工藤会と草野一家が合流して工藤連合草野一家が発足すると、野村四代目は本部長に起用され、工藤連合草野一家の最高幹部となった。1988年頃に母が亡くなると、約7億円の遺産を相続したとされる。

1990年12月に二代目工藤連合草野一家が発足すると若頭に抜擢され、1999年01月に改称した三代目工藤會で理事長に就任。着実に出世の道を歩んで行き、内部での権力闘争にも打ち勝ち、2000年01月に四代目工藤會会長を襲名した。

野村四代目は四代目工藤會会長を襲名した頃、溝下三代目の意向で博打から手を引いたとされる。



田上文雄五代目、最高幹部が同一派閥に

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2011年07月、野村四代目は跡目を理事長であった田上文雄(四代目田中組)組長に譲り、五代目工藤會が発足。野村四代目は五代目工藤會総裁に上がった。

田上文雄五代目は1956年頃の生まれ、16~17歳の頃に工藤會の門を叩いたが、年齢が若かったためか組への加入を一度断られていたとみられる。

1986年頃に野村四代目が三代目田中組組長を継承した後、1990年頃に田上五代目は三代目田中組若頭に就任。2000年01月に野村四代目が四代目工藤會会長を襲名すると、田上五代目は四代目田中組組長を継承し、四代目工藤會の直参に昇格した。

その後、2003年頃に四代目工藤會理事長に就任し、四代目工藤會の最高幹部となった。

2011年07月に野村四代目が総裁に上がり、田上五代目が五代目工藤會会長を襲名。理事長には菊池啓吾(五代目田中組)組長が就いた。野村総裁、田上会長、菊池理事長と、五代目工藤會の最高幹部が田中組出身者で占められることとなった。



九州で最大規模の暴力団

工藤會は飲食店やパチンコ店などからみかじめ料を徴収し、建設会社からは大型工事のたびに工事費の1~5%を納めさせていたという。暴力団に利益供与しない業者や、みかじめ料を断る店舗などには容赦なく攻撃し、暴力を背景に利権を獲得して行った。

手榴弾や爆発物を使った襲撃を行うこともあり、なりふり構わぬやり方で市民を屈服させた。工藤會の武器庫からは自動小銃やロケットランチャーが発見されるなど、武闘派として全国にその名を轟かせ、福岡県北九州市は『修羅の国』だと揶揄された。

他の暴力団組織との抗争では、1963年に起こった三代目山口組との『紫川事件』の他、これまでに五代目山口組『三代目山健組』系組織、五代目山口組『伊豆一家』、山口県下関市の合田一家系組織、福岡県久留米市の道仁会系組織などと抗争したとみられる。

一方で、不良外国人を排除して治安維持に貢献するなど、地域に密着した活動をして来たとされる。

野村四代目が北九州市小倉北区に構えている邸宅は、巨大な石垣や塀に囲まれた要塞のような佇まいで、広大な敷地面積を有しており、資金力の高さを伺わせた。2015年頃の時点で、野村四代目の預貯金は20億円にも上っていたという。

野村四代目は、末端組員にとっては雲の上の存在で神のように崇められていたとされ、絶対的な存在であったとされる。会長から総裁にあがっても実質的トップで、工藤會の総帥であったとみられている。

工藤會は2008年の時点での全構成員は1200人にも上り、鉄の結束を誇り、九州で最大規模の暴力団組織となっていた。



マスコミへの露出、YouTubeも

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工藤會はマスコミからの取材に複数応じていて、暴力団対策法が施行される直前、溝下三代目はテレビのインタビューで「(暴力団)壊滅という形になっても我々はどうせ裏で繋がることやからですね、かえって犯罪はやりやすくなると思うんですよね。そのうち殺人下請け会社とか、窃盗下請け会社ができるんじゃないですか」などと話している。


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2012年01月、テレビ朝日の報道ステーションが五代目工藤會を取材し、幹事長の木村博(二代目津川組)組長がインタビューに応じた。


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2012年08月、カタールの衛星テレビ局であるアルジャジーラが五代目工藤會を取材し、木村博幹事長がインタビューに応じた。

木村幹事長「生業であっても隠れてこそこそしていかなくてはならない。(組員)1人1人がわずかな生業を持って、(工藤會は)互助的な組織として運営しているというのが本当のところです」

―― 厳しい状況を打開するために暴力的な手段を使う可能性はあるか

木村幹事長「(暴力的な手段を使うことは)私個人は考えていないし、多くの人は考えていない。1000人の1人1人が何を考えているのか把握することは出来ないが、暴力的な手段を使うのではなく、法的手段などで正々堂々と戦っていくというのが、工藤會の基本姿勢です」

木村幹事長「2011年に福岡で18件の発砲事件がありましたが、1つも検挙されていません。しかし、警察がマスコミを使った発表で、全てが工藤會の仕業ということになりました。一般市民に、工藤會は凶悪な犯罪を起こす団体というイメージを与え、何かあれば工藤會が悪いというような風潮にあります」

―― 最近の暴力的な事件に工藤會の組員は関与していないのか

木村幹事長「過去においても、これから先も、そういったことに工藤會が組織的に関与していくことはありません。はっきりここで断言しておきますが、組織的に関与したという事例は今まで一度もありません」

木村幹事長「これだけの人間が集まれば、1人2人はそういったはみ出し者が出てきます。そういう事が無いように、我々は毎月の定例会議で、法律を遵守するように、一般市民に迷惑をかけないようにと指導しています。とりわけ薬物については厳しく指導しています」

―― ヤクザを取り巻く環境が厳しくなる中、今後、どのように組織を維持していくのか

木村幹事長「その時代、その境遇に対応して生きていきます。まぁ暴力団は警察が作った用語で、我々にはそういう認識はありません。任侠道、ヤクザですね。それを誇りに思っています」

などと話し、これまでの市民への襲撃事件に工藤會は一切関与していないと明言した。


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2013年02月、テレビ西日本が五代目工藤會を取材し、木村博幹事長がインタビューに応じた。

木村幹事長「(福岡)県警の幹部ですか、工藤會とは全面戦争とか言うコメントも出してましたけどね、向こうも戦争のつもりなら、こっちも戦争のつもりですね。受けて立たなきゃいけませんね」

この他、ロシアのテレビ局、アメリカのニューヨーク・タイムズ、日本の週刊誌などの取材に応じており、マスコミ対応には積極的だったとみられている。


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また、工藤會関係者が運営していたとみられるYouTubeチャンネルに、警察に違法な職務質問をされたとして、『工藤會対福岡県警』というタイトルで職務質問された際の音声を公開したこともあった。



 ⇒ 工藤會の経歴シリーズ 










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