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三代目熊本組は、岡山県で最大勢力だった現金屋が源流。現金屋の三宅芳一組長は岡山県児島市議会議員も務め、児島市を牛耳り、1964年に三代目山口組の田岡一雄組長の客分となる。現金屋最高幹部だった熊本親初代は1964年に三代目山口組の直参となり、白川孝郎二代目、藤原健治三代目と系譜が続いている。

藤原三代目は2015年に六代目山口組を離脱して神戸山口組へ移籍し、三代目熊本組は神戸山口組の傘下となったが、2021年06月に藤原三代目は引退した。


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現金屋、瀬戸内海のカポネ

熊本組の源流である現金屋は、岡山県児島市を拠点とし、岡山県下で最大の勢力があったとされる。現金屋の三宅芳一組長は八百屋を営んでいたが、終戦後に旧軍用服を横流ししたり、船で密貿易を行うなどして資産を増やし、『瀬戸内海のカポネ』と呼ばれた。

三宅組長は現金屋を結成し、一度政府から解散命令を受けて解散するが、すぐに再結成。1952年に岡山県児島市で児島競艇場が開設されると、三宅組長は会場の警備を任された。八百長の競艇レースを強要するなど、児島競艇場を裏で支配した。

三宅組長はヤクザをやりながら1956年に児島市議会議員選挙に当選し、児島市議会議員となる。市議の大半を三宅派に仕立て上げ、議会に影響力を持ち、土地売買や建設工事の利権を手に入れ、児島市政を牛耳った。1962年には政治家に専念するため、ヤクザを引退する意向を示した。



熊本親初代、現金屋から山口組入り

熊本組の熊本親初代は1919年生まれ、現金屋で最高幹部を務めた。三宅組長は引退して熊本初代に現金屋の跡目を譲ろうとしたが、内部で反発が起きて断念した。

現金屋の跡目を継げなくなった熊本初代は、1963年01月に三代目山口組若頭の地道行雄組長が率いる地道組へ移籍し、地道組舎弟となり山口組に入った。熊本組を結成し、岡山県玉野市に本部を置いた。1964年02月には三代目山口組の田岡一雄組長から盃を受けて六代目山口組の直参へ昇格し、三代目山口組若中となる。

熊本初代の山口組入りで山口組と親密度が増した三宅組長は、1963年02月に田岡組長と客分の盃を交わすが、1964年に引退。実弟の三宅一巳が二代目現金屋を継承して田岡組長の舎弟となったが、1965年に破門され、現金屋は解散した。

六代目山口組顧問だった大石誉夫(大石組)組長は、現金屋に加入していた時期があると言われている。大石組長の兄である大石宮次郎(大石宮組)組長は、独立組織であった太政官の幹部だったが独立し、愛媛県新居浜市に組織を構えた。大石組長は兄とともに活動していたが、1961年頃に岡山県に進出して地盤を構築。

兄の大石宮次郎組長は、1963年に地道組に加入して地道組舎弟となった後、1964年に三代目山口組の直参に昇格。直参昇格後、三代目山口組で若衆をほぼ持たない組長たちで結成した山老会のメンバーとなった。

弟の大石誉夫組長は、岡山県に進出した後に現金屋に加入。1971年に三代目山口組の直参に昇格し、四代目山口組舎弟、五代目山口組舎弟頭補佐、六代目山口組顧問を歴任し、2012年03月に引退している。

現金屋の解散後、現金屋の勢力は熊本組や大石組が引き継いで行ったとみられている。

1984年06月、三代目山口組若頭だった竹中正久(竹中組)組長が四代目山口組組長を襲名し、四代目山口組が発足。熊本初代は四代目山口組舎弟に直り、1988年02月に引退した。



白川孝郎二代目、媒酌人としても活躍

熊本初代が引退すると、熊本組若頭であった白川孝郎組長が二代目熊本組組長を継承。白川二代目は1938年10月生まれ。熊本組で長く若頭を務めていて、組織のまとめ役だったとされる。

白川二代目は、四代目山口組の竹中正久組長が山一抗争で亡くなってされていたため盃は無かったが、四代目山口組の直参へ昇格し、暫定的に四代目山口組若中となった。

1989年05月、四代目山口組若頭だった渡辺芳則(二代目山健組)組長が五代目山口組組長を襲名し、五代目山口組が発足。白川二代目は引き続き五代目山口組若中となった。

五代目山口組総本部当番長に起用された他、渡辺組長と新直参との盃事では、白川二代目が媒酌人を務めることが多かった。

2005年08月、五代目山口組若頭だった司忍(弘道会)会長が六代目山口組組長を襲名し、六代目山口組が発足。白川二代目は引き続き六代目山口組若中となるが、2007年08月に病気のため68歳で亡くなった。



藤原健治三代目、神戸山口組へ電撃移籍

白川二代目が亡くなると、2007年10月に二代目熊本組若頭であった藤原健治(藤健興業)組長が跡目を継承し、三代目熊本組組長に就任。六代目山口組の直参へ昇格し、六代目山口組若中に就任した。

藤原三代目は1945年11月生まれ。20代前半で初代熊本組傘下組織の組長と交流を持ち、渡世を開始。ある事件で服役した後、1978年頃に熊本初代と盃を交わし、熊本組の直参となった。

自身で藤健興業を設立して組長に就任し、熊本組で若頭補佐や本部長を歴任した。1988年に二代目熊本組が発足すると二代目熊本組若頭に抜擢され、約20年にわたって若頭を務め上げていた。

2011年09月、藤原三代目は六代目山口組幹部に起用され、2012年04月には六代目山口組組織委員に就任した。

2015年08月、六代目山口組が分裂して神戸山口組が結成されると、藤原三代目は約3箇月後の2015年11月に神戸山口組へ移籍。現職の六代目山口組幹部が電撃的に移籍したことで、神戸山口組は勢いを見せつけた。藤原三代目は神戸山口組舎弟に就任し、三代目熊本組は神戸山口組の傘下組織となった。

2016年11月には、藤原三代目は神戸山口組舎弟頭補佐に昇格した。神戸山口組へ移籍後に、三代目熊本組は本部を岡山県玉野市から岡山県倉敷市に移転したとみられている。

2020年12月、三代目熊本組若頭の横森啓一(三代目藤健興業)組長が率いる、岡山県倉敷市にある三代目藤健興業の組事務所に何者かが乗り込み、拳銃を数発発砲する事件が発生。六代目山口組『三代目弘道会』傘下『野内組』組員らが出頭し、逮捕された。

2021年01月、横森組長ら三代目藤健興業の組員ら10数人が、特定抗争指定暴力団の警戒区域に設定されている岡山県岡山市にて5人以上で集まったとして、暴力団対策法違反の疑いで逮捕された。横森組長は罰金50万円の略式命令を受け、その他の組員らは不起訴処分となった。

2021年02月、横森組長は三代目熊本組を脱退し、三代目熊本組の複数の組員らと横森組を結成。香川県高松市に本部を置く六代目山口組『二代目若林組』に移籍し、二代目若林組副組長に就いたとみられている。

2021年05月、岡山県倉敷市にある藤原三代目の自宅に、何者かが拳銃を発砲する事件が発生。六代目山口組『三代目杉本組』系組員が出頭し、逮捕された。

横森組長らの移籍になどによって組員が減少していた三代目熊本組は、藤原三代目の引退や三代目熊本組の解散が濃厚とみられるようになっていた。藤原三代目の自宅への発砲事件は、六代目山口組からの「早く引退しろ」という警告だと捉えられていて、その去就が注目された。

2021年06月、藤原三代目は引退を表明し、渡世生活に幕を下ろした。



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