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2018年12月に書籍『悲憤』を発売した、五代目山口組若頭補佐だった中野会の中野太郎元会長とはいったい何者なのか。書籍やネットなどの情報を基に、経歴をまとめてみる。

2021年01月10日、中野元会長は病気のため亡くなった。84歳だった。


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山口組元若頭補佐 中野会 中野太郎氏がご逝去
2021年01月10日

(いまにしのりゆき) http://www.imanishinoriyuki.jp/archives/57583421.html







中野太郎元会長の経歴

中野太郎会長は1936年10月生まれ、大分県日田市の出身。子供の頃から問題児で、中学校に上がる頃には日本刀を持ち歩いて人を斬りつけたり、パトカーを炎上させたこともあったという。成人する前に殺人の罪で服役。

1955年頃に九州中野会を結成し、地元の日田や福岡で暴れまわった。1960年頃に大阪へ出て、独立組織だった澄田会の傘下であった名和組に所属した。名和組が衰退すると、1961年頃に三代目山口組『山健組』へ移籍。山本健一組長の舎弟となり、山健組渉外委員長に就いた。

1970年に後の五代目山口組組長となる渡辺芳則組長が山健組内に健竜会を発足させると、中野会長は健竜会相談役となって渡辺組長を支えた。1982年に渡辺組長が二代目山健組組長を継承すると、中野会長は二代目山健組舎弟頭補佐に就任。

後に神戸山口組組長となる井上邦雄組長は、中野会長の舎弟だったという。



砂子川組を一方的に攻撃

1987年06月、中野会系組員らが大阪府枚方市にある同和系の建設協会に押し入り、中に居た砂子川組系組長を銃撃。その数時間後、中野会系組員らが大阪府守口市にある砂子川組系組事務所に押し入り、中に居た組員3人を銃撃。

翌日には砂子川組幹部の自宅にダンプカーが突っ込み、さらにその翌日には砂子川組系幹部が経営する不動産会社が襲撃された。

これらの事件の数日前に、大阪府枚方市にあるレストランで中野会系組長が銃撃されていて、後に一和会『二代目山広組』系組員の犯行だと判明するが、1987年02月に四代目山口組が山一抗争の終結を宣言していたため、中野会は一和会の犯行だと思わず、砂子川組にやられたと勘違いしてこれらの事件を起こした。



中野会という一大ブランド

1989年05月に渡辺組長が五代目山口組組長を襲名すると、中野会長は五代目山口組の直参に昇格し、中野会は直系組織となった。1990年07月には五代目山口組若頭補佐となり、本家の執行部入りした。

中野会長は武闘派として名を馳せ、傷害や恐喝で懲役に行くことが多く、懲役太郎や喧嘩太郎などと呼ばれていた。一方で義理人情に厚く、子分思いの面もあるとされ、最盛期には2000人近い構成員を有していたとされる。

中野会長は短気ですぐにキレ、酒癖も相当悪く、口癖は「あのガキいてもうたれ」だったとされる。イケイケな中野会長は他組織はもとより、山口組の内部からも恐れられた。

中野会でない者たちが、中野会を自称して悪事を働くことも多数あったとされ、中野会の名前は一大ブランドとなっていた。

中野会長は、元三代目山口組『金田組』組員で部落解放同盟の支部長だった小西邦彦や、元三代目山口組『菅谷組』幹部だったサージこと生島久次とは盟友だったという。

1992年02月、三代目山口組『菅谷組』系組織の出身で、菅谷組解散後に山健組の傘下であった中野会に加入し、中野会会長代行を務めていた井奥会の井奥文夫会長が、内部昇格で五代目山口組の直参となった。

井奥会長は中野会相談役や二代目山健組組長秘書などを歴任し、中野会が直系組織になると中野会会長代行に就任。直参昇格後は五代目山口組組長秘書などを務めたが、2008年10月に後藤組長処分事件に連座して絶縁されている。

中野会長は京都府八幡市に住居を構え、京都に進出した。



中野会長襲撃事件、会津小鉄会と即和解

京都に進出した中野会は、京都の会津小鉄会との間で1992年頃からたびたび抗争が勃発していた。1996年07月に京都府八幡市にある散髪屋で髪を切っている最中の中野会長が、会津小鉄会の組員らに銃撃される事件が発生。ボディーガード役の中野会組員が応戦して襲撃犯を掃討し、双方合わせて20発以上の銃弾が飛び交ったが、中野会長は無傷で難を逃れた。

襲撃に失敗した会津小鉄会は、すぐさま図越利次若頭らが山口組総本部へ出向き、五代目山口組の宅見勝若頭らに謝罪をし、指を詰めて慰謝料数億円を添え、和解を申し入れたとされる。宅見若頭はすぐに詫びを受け入れ、手打ちが完了した。五代目山口組の最高幹部が直接命を狙われたにも関わらず、一発の返しもしないままスピード決着することとなった。

中野会長は警察の事情聴取を受けていたため、会津小鉄会の和解話を聞かされていなかった。自身に相談なく、当事者を抜きにして和解を受け入れた宅見若頭に対して中野会長は不満を募らせ、事件の背景に疑心暗鬼を抱いていたという。






中野会長襲撃事件の背景に宅見若頭の影

経済ヤクザの宅見若頭と武闘派ヤクザの中野会長はソリが合わず、以前から中野会長と宅見若頭は不仲だとされていたが、この和解受け入れで確執は決定的なものとなったとされる。中野会長襲撃事件は言うことを聞かない頑固な中野会長を始末するため、宅見若頭が会津小鉄会を使って引き起こしたのではないか、と噂されるようになった。

宅見若頭は渡辺組長を五代目から引きずり降ろすクーデターを計画していたとされていて、渡辺組長の親衛隊長を自負し、誠心誠意を持って親分に仕えていた中野会長がクーデター計画の邪魔だったのではないかと言われている。

中野会長はクーデターに加わるよう要請されていたが、それには応じず、宅見若頭がカネで懐柔しようとしてきても受け取りを拒否したという。言いたいことをハッキリと言い武力も勢力もある中野会長は、宅見若頭からだけでなく、五代目山口組若頭補佐であった三代目山健組の桑田兼吉組長や、古川組の古川雅章組長など他の山口組執行部からも煙たがられるようになり、中野包囲網が固められて行ったことなどが中野会長襲撃事件の背景にあるとみられている。



宅見勝若頭銃撃事件、山口組から絶縁

1997年08月、神戸のホテルのティーラウンジで他の最高幹部と昼食を取っていた宅見若頭は、近づいてきた中野会のヒットマン4人組に10発以上も拳銃を発砲され、1時間後に出血多量で亡くなった。その際、流れ弾に当たった歯科医師の男性が重体となった。

中野会系組員の仕業だと判明すると、五代目山口組は中野会長を破門処分とした。数日後、重体となっていた歯科医師の男性が亡くなったことを受け、五代目山口組は中野会長を絶縁処分に切り替えた。中野会長は宅見事件への関与を否定し、絶縁後も引退せず、いずれは山口組に復帰できると思い、中野会は一本独鈷として存続した。1999年07月に中野会は指定暴力団に指定された。

親分を失った宅見組や他の五代目山口組系組織が中野会へ報復を連発し、多数の中野会系幹部が襲撃され、中野会長の自宅に火炎瓶が投げ込まれるなど、約40件もの報復事件が発生した。複数の中野会組員が中野会を離脱し、五代目山口組系組織などへ移籍した。

1998年07月、宅見事件の首謀者とされる中野会若頭補佐風紀委員長は、逃亡先の韓国ソウルのマンションで変死した。

1999年09月に中野会若頭が、大阪市生野区の麻雀店で五代目山口組『二代目宅見組』傘下『西野組』組長らに射殺された。西野組組長は懲役20年の判決を受けた。

2002年04月には中野会副会長が、沖縄県那覇市で車で走行中に五代目山口組『天野組』傘下『東浜一家』組員に射殺された。東浜一家組員は懲役15年の判決を受けた。

宅見事件のヒットマンは4人のうち3人が逮捕され、それぞれ懲役20年が確定。宅見若頭へ銃弾を命中させたとされる残りのヒットマン1人は、2006年06月に神戸の六甲アイランドの倉庫内に置かれた工具箱から遺体で発見された。中野会関係者が匿っていたが、衰弱して病死し、遺体の処理に困って遺棄したとみられる。

最後まで逃亡していた、現場の指揮役だった中野会系組長は、16年間の逃亡の末、2013年06月に潜伏先の埼玉県で逮捕された。その後、無期懲役が確定している。






宅見事件の背景に渡辺五代目の影

1989年05月に四代目山口組若頭であった二代目山健組の渡辺組長が五代目山口組を襲名するが、渡辺五代目誕生の功労者は宅見若頭(当時は若頭補佐)だったとされている。

四代目山口組では山一抗争が収束してきた1988年頃から跡目問題が起きており、宅見若頭らは渡辺組長を五代目に擁立したが、四代目山口組組長代行であった中西組の中西一男組長が五代目に立候補し、直系組長の間では渡辺組長を推す勢力と中西組長を推す勢力に分かれていた。

宅見若頭は多数の直系組長を説得して回り、渡辺支持を取り付けて行った。中西組長を推していた古参組長らも宅見若頭の説得に応じ、渡辺組長を推す勢力は多数派となり、中西組長は五代目への立候補を取り下げた。

渡辺組長が五代目に決まったが、渡辺組長は「自分が五代目を襲名した場合、組長としての発言をしない」と約束し、宅見若頭は「数年間は組織運営を新執行部に委ねて欲しい」と条件を付けたとされている。

宅見若頭にとっては、都合よくコントロール出来る渡辺組長は軽い神輿で、渡辺組長を担ぐことで五代目山口組の実権を握れると考えていたとみられる。

五代目山口組は発足以後、宅見若頭の辣腕で山口組の構成員を3万人にも増やし、数々の抗争を勝ち抜き、関東にも進出し、経済面でも潤沢になり、山口組は全国トップの組織となったが、渡辺組長は宅見若頭のワンマンぶりに嫌気が差していたと言われている。

他にも、渡辺組長は宅見若頭から「五代目になれたのは誰のお陰なんや」というようなことを言われていて、我慢の限界に達し、信頼している武闘派の中野会長に宅見若頭襲撃を依頼したという。

中野会長は渡辺組長から「はようカシラのタマをトれ」とたびたび指示を受けており、中野会長はさすがに同じ組織の若頭を襲撃するのは大罪中の大罪だと渋っていたが、渡辺組長は約1年にわたって執拗に要請し、根負けした中野会長は中野会副会長に相談し、宅見若頭銃撃事件が起きたとみられている。

渡辺組長は「(宅見若頭を襲撃したら)絶縁はしない。最初は謹慎処分で済ましていずれは復帰できるようにする」と中野会長に言っていたとされるが、実際には破門から絶縁に切り替えられ、中野会長が山口組に復帰することは無かった。






渡世から引退、書籍の発売

2003年01月、中野会長は脳梗塞で倒れ、病院に入院した。命に別状は無かったが、体の一部に後遺症が残り、療養生活を余儀なくされた。

2005年08月、渡辺組長が引退して司忍組長に代替わりすることが決定した数日後、中野会長は引退を決意し、大阪府警に自身の引退と中野会解散を届け出た。解散時の中野会の勢力は130人程度まで減少していたという。

引退した中野会長は、京都府八幡市の自宅で療養していたが、しばらくして故郷の大分に戻ったとされる。宅見事件への関与を否定し続けたまま、静かに余生を送っていると伝えられている。

2018年12月、講談社から書籍『悲憤』を発売。中野会長は書籍の中で宅見若頭事件について、自身と渡辺組長の関与を言及した。

2021年01月、中野会長は逝去した。享年84歳。



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