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神戸山口組若頭代行の『織田絆誠』とは、一体いかなる人物なのであろうか。

ネットや雑誌の情報を基に経歴をまとめてみることにするが、直参に取り立てられたばかりで情報源が少ないため参考程度にしてもらいたい。ネットで調べてみると織田に纏わる様々な逸話があるようで、山健組の秘密兵器とも言われているようだ。

今やもう説明不要となった神戸山口組の織田若頭代行。神戸山口組発足時に山健組からの内部昇格で直参となったが、いきなり若頭補佐からスタートし3週間後には若頭代行に昇格するという異例の待遇だ。

当会サイトでもこの記事の反響は大きく、公開してから常に人気記事の上位をキープし続けている。当会サイトがこの記事を最初に公開した2015年10月初旬の時点では、まだ織田に関する記事は少なく、週刊誌での詳しい紹介も無く、多くは巨大掲示板からの情報であった。

記事の公開から約8箇月が経過し、織田に関する既存メディアの情報が世に多くなり、織田に対する社会的需要も高まってきたため、記事の加筆・修正をする。



経歴まとめ

織田絆誠(おだ よしのり)、本名は金禎紀(きん よしのり)、1966年10月23日生まれ、大阪府の出身。

織田興業組長、五代目山口組倉本組若頭補佐、三代目山健組四代目健竜会若頭補佐、邦尽会会長、四代目山健組若頭補佐、四代目山健組本部長、神戸山口組若頭補佐を歴任。1990年の山波抗争で懲役12年を務めた山口組側の功労者。

現在は神戸山口組若頭代行・懲罰委員、四代目山健組副組長に就いている。



山口組分裂までの経歴

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1984年頃、父親の兄弟分だった五代目酒梅組『張本組』の預かり若衆として18歳で渡世開始、張本正来組長との盃は無かった。初期の頃は織田義功または金義巧という名前で活動していたとみられる。

1985年頃、政治結社『日韓同志会』を発足させ、1986年頃には張本組の若頭補佐に起用される。張本組内で『正心会』を結成、同時に張本組若頭に昇格した。その後、山口組と喧嘩出来ない酒梅組に嫌気がさしケジメとしてエンコを詰めて脱退、一本独鈷の組織『天誠会』を立ち上げる。

1984年頃、大阪の独立組織で渡世を始める(酒梅組系列だと言われている)。1988年頃、四代目山口組『倉本組』組長・倉本広文と盃を交わし倉本組の若中となり、山口組入り。『織田興業』を結成して会長に就任する。1989年、五代目山口組と竹中組との抗争『山竹抗争』が勃発すると倉本組長のボディーガード役に登用され、その後に倉本組幹部に抜擢された。

1990年、山口組と波谷組の抗争『山波抗争』が勃発。抗争が始まって2日後の06月30日に織田興業の組員2人が波谷組『平澤組』幹部を車から4発銃撃した。織田はこの事件の首謀者とみなされ07月05日に出頭し逮捕され、懲役12年の刑に服すことになる。

服役中に倉本組若頭補佐へ昇格。服役していた徳島刑務所で後の親分となる井上邦雄と出会い、極道としての指導・薫陶を受けるも1997年に旭川刑務所へ不良押送される。1998年に倉本広文が急死すると跡目が決まらず、倉本組は『倉心会』と『貴広会』に分裂し両方とも五代目山口組の直系組織となった。両組織ともに織田を誘いかけるが断り、組織に属さず浪人生活を選んだ。

2001年頃、織田は刑期を終えて10数年ぶりに出所した。大阪で『織田興業』を再結成、織田の出所を待ち続けた組員7名とともに再スタート。倉心会最高顧問の『黒竜会』会長・山本竜五郎を介して数年ぶりに再会した『四代目健竜会』会長・井上邦雄の盃を受け、35歳で四代目健竜会若中となり山口組に復帰する。

2003年頃、四代目健竜会若頭補佐に昇格する。2004年には内部昇格で三代目山健組の直参となった。2005年に井上邦雄が四代目山健組組長を継承すると、織田興業を『邦尽会』に改称。代替わりさせ二代目邦尽会となり、織田は一人親方になる。

四代目山健組では本部長代行、本部長、若頭補佐を歴任し、山健組の最高幹部となった。2014年10月、神戸市内の喫茶店で建設業の30代男性に「にらまれた」などと因縁をつけ、正座させて顔や手足を殴打し重傷を負わせた傷害容疑で逮捕された。

2015年08月27日、六代目山口組若頭補佐の四代目山健組組長・井上邦雄は六代目山口組を絶縁となり、織田は井上に準じて六代目山口組を離脱した。



どんな人物なのか

大阪の独立組織を脱退したときには山口組系を始めとする多くの団体からスカウトが掛かったが、倉本広文の極道としての生き様に惚れて倉本組に加入したと言われているようだ。

山波抗争で逮捕された時、大阪府警本部の取調べで完全黙秘を通し倉本組から1人の逮捕者も出さず全てを被った事から、倉本広文の鶴の一声で異例の若さで倉本組若頭補佐に昇格したとされている。

織田が服役していた当時の徳島刑務所では、織田や井上邦雄の他にも後に有名となるヤクザが多く、山口組直参の古川組組長・古川雅章、後の五代目健竜会会長・中田広志、四代目山健組若頭の健國会会長・山本國春、六代目豪友会会長・加藤徹次、三代目倉本組組長・河内敏之、三代目倉本組最高顧問・木崎進などが収監されていたという。

1997年に宅見勝暗殺事件が発生すると、織田は刑務所の中にいる配下の組員に「中野会関係者を襲撃する」とするメモを送った。これが刑務官に見つかってしまい不正連絡とみなされ、旭川刑務所に不良移送されたという逸話もあるようだ。

倉本組が分裂すると倉心会・貴広会からの誘いを倉本の名を消した張本人という理由から断り、山波戦争という山口組本抗争に関わらず大々的な放免も拒否したと伝えられる。

2001年に出所した当初は倉心会最高顧問の『黒竜会』会長・山本竜五郎の盃を受けようとしたが、山本竜五郎は「自分の所に居たのでは大きく成れない、倉本は織田を大きい侠に育てようと決めていた、倉本のやろうとしていた事の例え半分でも自分がしたい、もっと大きな土俵で相撲をとって己の力を試すべきだ」と言い、健竜会入りを薦めたとのこと。

山本竜五郎の仲介で健竜会に若頭補佐として加入するという話になったが、織田は自分の力を試すために断り、健竜会末席からの再スタートとなった。

2003年11月、三代目山健組組長・桑田兼吉の保釈に絡む消えた二億円騒動に関係していた三代目山健組『繁田会』会長・繁田誠治が神戸市内で刺殺される事件が発生。織田の関与が疑われたが、真相は全く分からない。

四代目健竜会最高顧問の『三島組』組長・三島敬一と喧嘩したという話もあるようだが詳しいことは分からない。三島組解散後に邦尽会へ移籍した三島組組員もいるようだ。2009年頃に邦尽会系の組員が2ちゃんねるで祭り状態になっていたようだが、詳しいことは分からない。

2012年02月、2007年05月に発生した多三郎一家総長刺殺事件の首謀者とされていた四代目山健組若頭の『健國会』会長・山本國春が一審判決で無罪となった(控訴審で逆転有罪)。その山本國春が無罪で出てきた時の祝い金を織田が相当持って行ったといわれているが、真相は分からない。

現在の親分である井上邦雄に対しては、名前を一文字とって『邦尽会』とするなど、確かな忠誠心を持っていることが窺える。


 ⇒ 織田絆誠の経歴 後半 
神戸山口組若頭代行『織田絆誠』の経歴 ② 山口組分裂以降
http://yakuza893.blog.jp/oda1.htm








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