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神戸山口組舎弟頭補佐の太田興業『太田守正』組長とはいったい何者なのであろうか、ネットや雑誌の情報を基に経歴をまとめてみることにする。六代目山口組が分裂する直前の2015年07月には書籍『血別 山口組百年の孤独』を出版し、話題になっていた。

2019年12月、太田組長は引退し、太田興業は解散したと報じられる。


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愚連隊を経て山口組入り

太田守正(おおた もりまさ)組長は1937年10月24日生まれ、熊本県の出身。太田組長は10代で大阪の愚連隊『浪速会』に加入。浪速会の金城徳治会長が逮捕され長期服役すると、1959年頃に浪速会会長に就任。浪速会には後に三代目山口組『菅谷組』の幹部となるサージこと生島久次も在籍していた。

浪速会の頃は鋳物工場で働いていたが、子分が殺人を犯してしまい工場から追い出される。その後は人夫出しや単車泥棒をして生計を立てており、太田組長は単車を盗んだ疑いで懲役4年を受けて服役。これ以外も合わせると懲役合計は16年ぐらいになるという。

後に山口組と抗争する明友会の小田秀臣グループ(後に山口組入り)と喧嘩になったこともあったとされ、若い頃から武闘派だったとみられる。

1964年に三代目山口組『山健組』傘下『健竜会』会長だった渡辺芳則(後の二代目山健組組長・五代目山口組組長)にスカウトされ、健竜会に加入して山口組入り。健竜会副会長(大阪支部長)に就任する。その後、健竜会副会長在任中に内部昇格で山健組の直参となる。

渡辺組長にスカウトされた時、健竜会に在籍していた中野太郎(後の五代目山口組若頭補佐・中野会会長)と桑田兼吉(後の五代目山口組若頭補佐・三代目山健組組長)も一緒に居たという。刑務所で知り合った友人が渡辺組長に太田組長を推薦したことがきっかけだったとされる。



山健組の最高幹部を務め、山口組の直参に

1982年に渡辺組長が二代目山健組組長を継承すると、太田組長は二代目山健組若頭補佐に起用された。1989年05月に渡辺組長が五代目山口組組長を襲名し、三代目山健組が発足すると、太田組長は三代目山健組体制で舎弟頭補佐、相談役、舎弟頭を歴任した。

2005年04月、太田組長は三代目山健組から内部昇格で五代目山口組の直参に昇格し、五代目山口組若中となった。同時に太田興業を太田会に改称するも、2008年09月に太田興業に名称を戻す。2005年08月に六代目山口組が発足すると、引き続き六代目山口組若中となった。

太田興業は山口組傘下の中でもいち早く関東に進出しており、稲川会系列や住吉会系列の組織とたびたび抗争をしながら勢力を拡大して行った。健竜会に加入する時の浪速会は30人程だったが、太田興業の最盛期には800~1000人の構成員を数えたとされる。

太田興業は格闘技や芸能界にも手を広げていて、太田組長は有名な俳優達とも交流があった。酒梅組の跡目の人選に関与したり、住吉会の加藤英幸(幸平一家十三代目)総長とも交流するなど、1990~2000年代には名実ともに大物ヤクザとして名を馳せた。


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六代目山口組の執行部を批判、除籍処分

2008年10月、六代目山口組舎弟だった後藤忠政(後藤組)組長の処分問題が起こると、太田組長は後藤組長を擁護し、執行部を批判。六代目山口組本家が行っていた、雑貨や日用品のなどの購入を直参に強制する弘道会方式も批判。六代目山口組の高山清司若頭に直接『我々は雑貨屋の親父ではない』と言い放ったという。

後藤組長の処分や弘道会方式に不満を持っていた、井奥文夫(井奥会)会長や川﨑昌彦(二代目一心会)会長など複数の直系組長と共に、執行部批判の会合に出席していたが、これが執行部に筒抜けで謀反の会合と見做され、太田組長は六代目山口組から除籍された。執行部批判の会合に出ていた他の10数名の直系組長には絶縁・破門・除籍・謹慎などの処分が下っている。

太田組長は六代目山口組から除籍されたため引退を余儀なくされ、太田興業は解散した。

太田興業の秋良東力若頭が地盤を継承し、秋良連合会を結成。六代目山口組の直参となった。秋良会長は三代目山口組『柳川組』の幹部の実子で、1972年頃に太田興業に加入して若頭補佐、本部長、若頭を歴任していた。

秋良会長は2011年に六代目山口組組長付に起用され、山口組分裂後の2015年11月に六代目山口組幹部へ昇格している。



書籍を発売、盛力健児氏を痛烈批判

引退後の2015年07月、サイゾーから書籍『血別 山口組百年の孤独』を出版。この本では山健組幹部から山口組直参となり、2009年頃に引退していた盛力健児(盛力会)元会長が2013年に発売した書籍『鎮魂 ~さらば、愛しの山口組』の内容について、異論を唱えている。

盛力元会長とは元々同じ山健組だったが、以前から気に食わなかったようで、書籍の中で徹底的に批判している。渡辺芳則五代目の人柄、中野太郎会長襲撃事件、宅見勝若頭暗殺事件、六代目山口組クーデターなどについて、盛力元会長の『鎮魂』とは異なる見解を示している。

その他、溝口敦など暴力団を題材とするジャーナリストや作家も、批判の的になっていた。



太田守正組長に批判された盛力健児元盛力会会長



神戸山口組で渡世に復帰、太田興業を再結成

2015年08月に六代目山口組が分裂して神戸山口組が結成されて以降、元山健組の重鎮であった太田組長の動静が注目されていて、復帰するのではないかとウワサされていた。

さすがに『別れの書』とした本まで出版した太田組長が復帰することは無いだろうと思っていたが、2015年12月に太田組長は78歳で渡世に復帰し、太田興業を再結成して神戸山口組に加入した。

太田組長は神戸山口組『四代目山健組』相談役で復帰した後、2016年01月に神戸山口組の直参に昇格し神戸山口組舎弟に就任。その後、神戸山口組舎弟頭補佐に起用された。復帰の手引きを行ったのは、神戸山口組若頭代行だった織田絆誠(後の任侠山口組代表)だとされる。

復帰した直後の2015年12月、太田興業の地盤を引き継いでいた六代目山口組『秋良連合会』の事務所前に、神戸山口組『四代目山健組』系組員が多数現れ、秋良連合会系組員らと乱闘になった。その約2時間後、秋良連合会系組員らが四代目山健組系組員らをバットなどで路上で襲撃。さらに翌日には、秋良連合会傘下の『綾誠会』の事務所に四代目山健組系組員らが車で突っ込む事件が発生した。

これらの事件をきっかけに、六代目山口組『秋良連合会』の複数の幹部が離脱し、神戸山口組『太田興業』へ移籍した。車に突っ込まれた綾誠会も太田興業へ移籍し、綾誠会事務所は太田興業の本部となった。



離脱した任侠山口組と交際しトラブルも

2017年04月に神戸山口組が分裂し任侠山口組が結成される際、任侠山口組の代表となる織田絆誠は太田組長と密会し、任侠山口組に参加するよう誘ったが、太田組長は断ったとされる。

2018年02月、太田興業が神戸山口組『四代目山健組』傘下『二代目兼一会』の縄張りで勝手にシノギを始めたとして、神戸山口組の傘下組織同士で内輪揉めが発生。さらに、太田興業の幹部が神戸山口組から離脱した任侠山口組の幹部と仲良くしていることも発覚。

二代目兼一会は自身の縄張りで太田興業が勝手にシノギを始めたこと、太田興業の幹部が任侠山口組と交際していることを問題視し、太田興業に何らかの処分を求めたが、逆に二代目兼一会が四代目山健組から絶縁されるという決着となった。

2019年04月、太田組長は神戸山口組の幹部会で、「私が今あるのは織田絆誠氏のおかげ。今後、太田興業は任侠山口組といい付き合いをしていく」などと述べたとされ、太田興業と任侠山口組が親睦団体になることが発表された。任侠山口組も「太田組長の熱い思いに応え、任侠山口組は太田興業とは仲間意識で接する。ただし、神戸山口組との関係は従来通り」との見解を示した。


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神戸山口組が分裂する際に密会していた太田守正組長と織田絆誠任侠山口組代表



突然の引退発表、太田興業解散へ

2018年12月、太田興業の納会を撮影した映像が流出し、一部ヤクザウォッチャーの間で話題となった。その1年後の2019年12月、太田組長は神戸山口組の納会で引退を表明し、太田興業は解散したとされる。



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