
2015年12月、元六代目山口組若中の太田興業『太田守正』組長が神戸山口組『四代目山健組』相談役で復帰した。
元六代目山口組若中の太田興業『太田守正』組長が神戸山口組『四代目山健組』相談役で復帰か
http://yakuza893.blog.jp/ootahukki.html
2016年01月、『太田守正』は神戸山口組舎弟に昇格した。
神戸山口組『四代目山健組』相談役で『太田興業』組長の太田守正が神戸山口組の直参に昇格
http://yakuza893.blog.jp/ootahukki1.html
この『太田守正』とはいったい何者なのであろうか、ネットや雑誌の情報を基に経歴をまとめてみることにする。分裂直前の2015年07月には『血別 山口組百年の孤独』という書籍を出版し話題になっていたようだ。
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経歴まとめ
太田守正(おおた もりまさ)、1937年10月24日生まれ、熊本県の出身。
太田興業(太田会)組長、初代健竜会副会長、初代山健組若中、二代目山健組若頭補佐、三代目山健組相談役、三代目山健組舎弟頭補佐、三代目山健組舎弟頭、五代目山口組若中、六代目山口組若中を歴任。
2008年10月に除籍されて引退、2015年07月に著書『血別 山口組百年の孤独』を出版した。
詳しい経歴
10代で大阪の愚連隊『浪速会』に加入し、1954年に浪速会会長となる。1964年に後の五代目山口組組長となる山健組健竜会会長・渡辺芳則にスカウトされ、健竜会に加入して山口組入り。健竜会副会長(大阪支部長)に就任する。
健竜会副会長在任中に内部昇格で初代山健組の直参となる。1982年に渡辺が二代目山健組組長を継承すると太田は二代目山健組若頭補佐に起用された。
1989年05月に渡辺が五代目山口組組長を襲名、二代目山健組で若頭を務めていた桑田兼吉が三代目山健組組長を継承する。太田は三代目山健組で舎弟頭補佐、相談役、舎弟頭を歴任。
2005年04月に太田は内部昇格で五代目山口組の直参となった、同時に太田興業を太田会に改称するも2008年09月に太田興業に名称を戻す。
2008年10月、六代目山口組舎弟の『後藤組』組長・後藤忠政の処分問題が起こると太田は執行部を批判。この件で除籍されて太田は引退し、太田興業は解散した。
2015年07月にサイゾーから『血別 山口組百年の孤独』を出版。
どんな人物なのか

浪速会という愚連隊は金城徳治という人物が会長をしていたが、金城が逮捕され長期服役を余儀なくされたため太田が浪速会会長に就任する。浪速会には後に三代目山口組菅谷組の幹部となるサージこと生島久次も在籍していた。
浪速会の頃は鋳物工場で働いていたが子分が殺人を犯してしまい工場から追い出される。その後は人夫出しや単車泥棒をして生計を立てており、太田は単車泥棒で懲役4年を受けて服役している。これ以外も合わせると懲役合計は16年ぐらいになるとのこと。
後に山口組と抗争する明友会の小田秀臣グループ(後に山口組入り)と喧嘩になったこともあったようだ。
健竜会会長・渡辺芳則にスカウトされた時、渡辺と一緒に健竜会の中野太郎(後の五代目山口組若頭補佐・中野会会長)と桑田兼吉(後の五代目山口組若頭補佐・三代目山健組組長)も居たという。刑務所で知り合った友人が渡辺に太田を推薦したことがきっかけだった。
渡辺が二代目山健組組長を継承すると太田は頭角を現し、桑田兼吉と橋本弘文(後の六代目山口組統括委員長・極心連合会会長)と共に『二代目山健組三羽ガラス』と呼ばれた。
山口組傘下の中でもいち早く関東に進出しており、稲川会系列や住吉会系列の組織とたびたび抗争をしながら勢力を拡大して行った。健竜会に加入する時の浪速会は30人程だったが太田興業の最盛期には1000人の構成員を数えたとされる。
太田興業は格闘技や芸能にも手を広げていて、太田は有名な俳優達とも交流があった。酒梅組の跡目の人選に関与したり、住吉会の十三代目幸平一家総長・加藤英幸とも交流があったが、山口組の岸本組組長・岸本才三や古川組組長・古川雅章や盛力会会長・盛力健児などとは反りが合わなかったようだ。
後藤組組長・後藤忠政の処分問題では後藤の擁護と共に、本家が行っていた雑貨や日用品のなどの購入を直参に強制する弘道会方式を批判。六代目山口組若頭・高山清司に直接『我々は雑貨屋の親父ではない』と言い放った。
執行部に反発する直参の井奥会会長・井奥文夫や二代目一心会会長・川﨑昌彦らと共に執行部批判の会合に出席していたが、これが執行部に見つかり謀反の会合と見做されて六代目山口組から除籍され引退。
太田興業も解散するが太田興業で若頭を務めていた秋良東力が地盤を継承して秋良連合会を結成、六代目山口組の直参となった。秋良は三代目山口組柳川組の幹部の実子で、1972年頃に太田興業に加入して若頭補佐、本部長、若頭を歴任していた。
秋良は2011年に六代目山口組組長付に起用され、山口組分裂後の2015年11月に六代目山口組幹部へ昇格している。
今後は
引退後に出版した『血別 山口組百年の孤独』ではその数年前に出版された盛力健児の『鎮魂 ~さらば、愛しの山口組』の内容について異論を唱えている。盛力会会長・盛力健児とは元々同じ山健組だったが以前から気に食わなかったようで書籍の中で徹底的に批判している。溝口敦を始めとするヤクザジャーナリストも批判の的になっていた。
それ以外にも書籍の中で自身の経歴、渡辺芳則親分の話、中野太郎襲撃事件、宅見勝暗殺事件、六代目山口組クーデターなどについて盛力の『鎮魂』とは異なる見解を示している。
2015年12月01日付で太田守正は神戸山口組『四代目山健組』相談役で渡世に復帰したと報じられる。山口組の分裂以後、太田の動静が注目されていて復帰するのではないかとウワサされていた。
さすがに本まで出版した太田が復帰することは無いだろうと思っていたが、復帰は現実のものとなったようだ。現在78歳の太田が復帰することによって神戸山口組の追い風になるのであろうか。今後の動きに注目されたい。
(追記)
太田は2016年01月16日に神戸山口組舎弟として直参昇格し、01月20日には神戸山口組舎弟頭補佐に起用されている。
出典 https://ja.wikipedia.org/wiki/太田会
出典 https://zh.wikipedia.org/wiki/太田會
出典 http://wikiyakuza.wiki.fc2.com/wiki/太田会(山口組)
出典 http://wikiyakuza.wiki.fc2.com/wiki/太田興業(山口組)
出典 太田守正『血別 山口組百年の孤独』サイゾー(2015/07/28)
コメント
コメント一覧
関西極道の世界では相談役は准構成員で定員外組員でしょう。復帰であるなら何か別の役職名になると思います。どうなんでしょうね。それにしても山健組の底力は凄いですね。「いざ鎌倉」となれば老侠たちが錆槍持って駆けつけるのですから。
数的劣勢を伝えられる神戸山口組ですが、意気軒昂で士気は高いようです。
警察の組織対策による見解に傾注したいと思います。
神戸山口組の歴史は5ヶ月
“紀寿”と“赤子”では勝負にならず
名古屋で発生した幹部によるピンポンダッシュ事件は究極のイメージダウンでした。
暴力団は若頭不在では成立せず
仮に若頭が現場指揮してれば脱退した神戸山口組に何らかの報復してる筈
今出来る事は6代目は若頭が復帰する迄は耐え復帰後に攻勢をかける事
若頭不在の今は下手に攻撃すれば6代目が逮捕され益々混乱が広がる
唯、今は耐えるしか無い
“司り耐え忍ぶ”
いくら言い訳をネットで語っても、国民全員が単に六代目山口組が一方的にやられまくってるようにしか思ってねーよ笑
ダセェな六代目。
幾ら言訳をネットで語るも堅気は神戸山口組が一方的に圧され捲りの様にしか思わず
頼むから死ぬか引退してくれ
名古屋に本家?
頭かち割るぞ
そのうちに、神戸に追い込まれるぞ
橋本は引退じゃろうし、関西から出て行かざるをえない弘道会