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山口組元最高幹部の瀧澤孝とはいったい何者なのか、元最高幹部ということなので大物組長のようだ。ネットや雑誌の情報を基に経歴をまとめてみることにする。

2018年05月09日、瀧澤孝は逝去した。80歳だった。


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瀧澤孝の経歴

瀧澤孝(滝沢孝・たきざわ たかし)、1937年07月20日生まれ。

兄の瀧澤仁志が組長を務めていた三代目山口組『地道組』傘下『八代目國領屋下垂一家(滝沢組)』に加入し渡世開始。瀧澤孝は八代目國領屋下垂一家の若頭を務めた。1969年に上部団体である地道組の地道行雄組長が死去して地道組が解散すると、瀧澤仁志は1971年に三代目山口組の直参に昇格。

1984年06月に四代目山口組が発足すると瀧澤仁志は引退、兄の跡を継いで瀧澤孝が九代目國領屋下垂一家を継承し、同時に四代目山口組の直参となった。

1989年05月、瀧澤は五代目山口組発足に伴い五代目山口組若頭補佐に抜擢され、1990年にブロック制が導入されてからは関東・北海道ブロック長を兼任。1991年、九代目國領屋下垂一家を五代目山口組組長の渡辺芳則が命名した『芳菱会』に改称し、総長に就任。

1997年09月に護衛の配下組員に拳銃を持たせていたとして、同年11月に共謀共同正犯で指名手配され、2001年07月に潜伏先の栃木県那須町で逮捕。2003年06月には12億円の保証金で保釈された。

2005年08月に六代目山口組が発足すると舎弟に直ったが、継続して六代目山口組若頭補佐を務めた。2008年11月に六代目山口組顧問となり、20年近く務めた山口組の執行部から退いた。2009年08月に瀧澤は引退して堅気となり、芳菱会は解散。芳菱会若頭の富田丈夫が地盤を引き継ぎ、國領屋一家総長として六代目山口組の直参となる。

2015年05月、スペインの画家「ダリ」の絵画を脅し取ったとして逮捕された。その後に体調不良で保釈。2015年09月、再び同容疑で逮捕された。



関連動画

2005年08月に行われた六代目山口組継承式の祝宴の動画。瀧澤は最後に中締めの音頭をとっている。




2005年12月に行われた六代目山口組の納会の動画。同じく瀧澤は最後に中締めの音頭をとっている。





六代目山口組組長代行に就任する予定だった?

2005年08月に弘道会会長の司忍が六代目山口組組長を襲名するが、この代替わりは瀧澤が陰で暗躍したと言われている。渡辺芳則五代目組長の引退は本意ではなく、司忍派によるクーデターがあったのではないかと流布された。

1997年に宅見勝若頭が暗殺され、中野太郎若頭補佐が絶縁されると、渡辺五代目は宅見若頭に牛耳られていた組織運営を自身の手に取り戻そうと奮闘するが、求心力は衰えて行った。

2004年11月、抗争の巻き添えになった警察官の遺族が渡辺五代目を相手に提訴した損害賠償請求訴訟で、最高裁は渡辺五代目の使用者責任を認める判決を下した。判決から2週間後の六代目山口組緊急直系組長会合で、渡辺五代目は判決を重んじて長期休養宣言を発表した。以後は執行部による合議制で組織運営が図られることとなり、渡辺五代目の求心力はますます低迷する。

山健組中心の五代目政権に嫌気が差していた司忍は天下取りに動き、中部ブロック長であった司忍は関東ブロック長の瀧澤と通謀し、『六代目組長は司忍、組長代行は瀧澤孝』という密約を瀧澤と交わしたとされる。瀧澤らは司忍を六代目にするべく根回しに奔走し、多数の直系組長を司忍派に仕立て上げたという。

2005年05月には若頭補佐だった司忍が若頭に就任し、宅見若頭暗殺から約8年間空席だった若頭のポストが埋まった。そして2005年08月、司忍は六代目山口組を襲名し、瀧澤は引き続いて若頭補佐となった。司忍と瀧澤の権謀は成功し、六代目誕生の立役者である瀧澤に多額の金が贈られた、渡辺五代目が引退する際の慰労金も瀧澤が3分の1を出した、などと言われている。

2005年12月に司忍六代目がボディーガード拳銃所持事件で収監されると、司忍六代目と約束した瀧澤が組長代行に昇格するはずが、高山清司若頭に阻まれて組長代行の話は無くなったとされる。

2008年11月に瀧澤は若頭補佐から顧問となり、執行部から退いた。そして2009年08月、ボディーガード拳銃所持事件の最高裁判決が出る前に引退し、組長代行に就任することなく山口組を去った。



銃刀法違反(共同所持)の罪で裁判が永久に続く

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瀧澤孝は1997年09月に起きたボディーガード拳銃所持事件の裁判で無罪が出るも、上級審で何度も審理を差し戻され、裁判が今なお継続しており、判決が決まらない異例の事態になっている。

1997年09月、大阪市内のホテルから山口組総本部に向かおうとしていた瀧澤孝と司忍の両若頭補佐一行が、大阪府警から職務質問を受けた際、ボディーガード役の組員が拳銃を所持していたため、両組織の組員が逮捕される。

事件から約2箇月後の1997年11月に瀧澤孝と司忍が共謀共同正犯で指名手配され、瀧澤は2001年07月に潜伏先の栃木県那須町で逮捕。 2003年06月に12億円の保証金で保釈された。

2004年03月に一審・大阪地裁で無罪判決を受け、2006年04月の二審・大阪高裁でも無罪となった。2009年10月に最高裁は一・二審を破棄し、審理を地裁に差し戻した。

2011年05月、2周目となる第一次差し戻し裁判で一審・大阪地裁はあらためて無罪を言い渡した。2013年08月、第一次差し戻し裁判で二審・大阪高裁は審理を再び地裁に差し戻す判決を下した。

瀧澤は最高裁に上告したが、2015年03月に最高裁は差し戻しを不服とした被告の上告を棄却、二審の差し戻し判決を支持した。

これによりまた一審・大阪地裁への審理の差し戻しが確定し、大阪地裁は瀧澤に対して3周目の地裁審理を開くことになった。


※ 瀧澤と一緒に指名手配された司忍は、指名手配後の1998年06月に逮捕され、2001年03月に大阪地裁で無罪判決、2004年02月に大阪高裁で逆転有罪判決。2005年08月に六代目襲名。2005年11月に最高裁が上告を棄却し、12月に収監され服役。2011年04月に出所した。


事件から約21年、約17年に亘って裁判が継続している。検察としては何としてでも瀧澤を有罪に持ち込みたいのだろうけど、大阪地裁がなかなか有罪判決を下さない。

2015年のダリの絵画恐喝事件は「瀧澤を銃刀法違反で有罪に持ち込めないので別件で逮捕してみた」という感じにも見受けられる。

ボディーガード拳銃所持事件は大阪地裁が有罪を出すまで永久に裁判が続くのであろうか。瀧澤孝は現在80歳、裁判が終結する前に寿命が来てしまうことも考えられる。

国家権力からすれば「大物組長はヤクザを引退しても優雅な余生を送らせるわけには行かないぞ」、という感じなのかもしれない。


※ その後、3周目の第二次差し戻し裁判で一審・大阪地裁は懲役6年の有罪判決を下し、続く第二次差し戻し裁判の二審・大阪高裁の判決は瀧澤が体調悪化の為、延期となった。


1997年09月、大阪市内で職務質問を受け、拳銃を所持していた組員が逮捕。
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1997年11月、瀧澤が共謀共同正犯で指名手配。
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2001年07月、潜伏先の栃木県那須町で逮捕。 
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2003年06月、12億円の保証金で保釈。
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2004年03月、一審・大阪地裁で無罪判決。(1度目の裁判)
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2006年04月、二審・大阪高裁でも無罪判決。(2度目の裁判)
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2009年10月、最高裁は一・二審を破棄し、審理を地裁に差し戻す判決。(3度目の裁判)
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2011年05月、一審・大阪地裁の第一次差し戻し裁判であらためて無罪判決。(4度目の裁判)
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2013年08月、二審・大阪高裁の第一次差し戻し裁判で審理を再び地裁に差し戻す判決。(5度目の裁判)
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瀧澤は差し戻し判決を不服として最高裁に上告。
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2015年03月、最高裁は瀧澤の上告を棄却、二審の第一次差し戻し高裁判決を支持。(6度目の裁判)
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2017年03月、一審・大阪地裁の第二次差し戻し裁判で懲役6年の有罪判決。(7度目の裁判)
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2018年05月、二審・大阪高裁の第二次差し戻し裁判で判決が延期。(8度目の裁判)


(追記)

2018年05月09日19時30分頃、体調悪化のため裁判を延期していた瀧澤孝は静岡県内で病死した。死因は肝硬変だとみられる。享年80歳。



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