Kobe

2021年04月、六代目山口組『四代目山健組』若頭を務めた健國会の山本國春元会長が、亡くなったと伝えられた。71歳だった。

山本元会長は、六代目山口組『四代目山健組』で渉外委員長や若頭を務めた四代目山健組の最高幹部。2007年に発生した五代目多三郎一家総長襲撃事件の首謀者として2010年に逮捕され、地裁で無罪判決が出るも高裁で逆転有罪判決。最高裁で上告が棄却され、懲役20年が確定。2014年に渡世から引退していた。


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逆転有罪判決から7年…山本國春・初代健國会会長が死去
2021.04.18

(週刊実話) https://weekly-jitsuwa.jp/archives/16707



このニュースのまとめ

  • 2021年04月10日、元六代目山口組『四代目山健組』若頭だった、健國会の山本國春元会長(71)が亡くなった。
  • 2021年04月11日、兵庫県神戸市にある斎場で、山本國春元会長の通夜が営まれた。



山本國春・初代健國会会長の経歴

山本國春会長は1950年頃の生まれ、大分県の出身だとされる。後に五代目山口組を襲名する渡辺芳則組長が初代会長を務めていた三代目山口組『山健組』傘下『健竜会』に加入し、山口組入り。

1975年から1978年まで続いた、三代目山口組と二代目松田組との大規模な抗争『大阪戦争』で、山本会長は抗争に参戦して逮捕され、10年以上の長期服役を務めたとされる。1982年に渡辺組長が二代目山健組組長を継承すると、山本会長は服役中に二代目山健組の直参へ昇格。

1989年05月に渡辺組長が五代目山口組を襲名すると、二代目山健組若頭だった桑田兼吉(二代目健竜会)会長が三代目山健組組長を継承。山本会長は三代目山健組渉外委員に起用され、健國会の前身となる兼國会を結成して会長に就いた。

2005年08月に桑田組長が引退を表明すると、三代目山健組若頭だった井上邦雄(四代目健竜会)会長が四代目山健組組長を継承。山本会長は四代目山健組渉外委員長に就任し、自身が率いる兼國会を健國会に改称した。

2006年頃、四代目山健組若頭を務めていた妹尾英幸(妹尾組)組長が引退すると、山本会長が後任の若頭に就任。四代目山健組のナンバー2となった。

山本会長が率いる健國会は兵庫県神戸市須磨区に本部を置き、武闘派組織として有名だったとみられている。最盛期には構成員が300人以上居たと言われ、六代目山口組の三次団体では格段の勢いがあったという。六代目山口組から「六代目山口組の直参にならないか」と打診されていたが断ったという話もあったとされる。

後に神戸山口組組長となる井上邦雄組長とは初代健竜会の頃から関係が深く、井上組長とは養子縁組をしていると言われている。


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兵庫県神戸市須磨区にある健國会の組事務所



五代目多三郎一家総長事件で逮捕

2007年05月、四代目山健組の幹部で愛知県名古屋市に拠点を置く五代目多三郎一家の後藤一男総長が、兵庫県神戸市の路上で何者かに刃物で刺される事件が発生した。

後藤総長は、中京地区に縄張りを構える中京浅野会の出身。中京浅野会は1979年頃、勢力を拡大する三代目山口組『弘田組(弘道会の前身)』に対抗するため、中京地区の愛豊同志会、鉄心会と糾合して運命共同会を結成。

運命共同会は中京戦争が終結した後、1986年頃に勢力を拡大する四代目山口組に対抗し、中京地区の平和のために、中京地区に縄張りを持つ瀬戸一家、稲葉地一家、導友会、平野家一家と親睦団体である中京五社会を結成。

1991年、中京五社会『運命共同会』傘下『鉄心会』の一部組員が五代目山口組『弘道会』に移籍を求めたことを発端に、名古屋抗争が勃発。鉄心会は分裂し、弘道会の力に押されて運命共同会は解散し、中京五社会も瓦解した。

中京五社会の解散後、加盟していた傘下組織が次々と山口組もしくは弘道会の傘下に加入して行った。平井一家、瀬戸一家が五代目山口組の傘下に、平野家一家、導友会、稲葉地一家が弘道会の傘下となった。弘道会は、古くから縄張りを守り続けている中京地区の老舗組織を次々と手中に収め、中京地区の代紋を統一した。

中京浅野会も弘道会に加入しようとするが、後藤総長はこれに反対。中京浅野会は浅野会に改称して弘道会に加入したが、後藤総長は五代目多三郎一家の名跡を継ぎ、五代目山口組内で弘道会とライバル関係にあり、主流派だった三代目山健組へ加入した。

2005年08月に弘道会会長の司忍組長が六代目山口組を襲名すると、二代目弘道会会長の高山清司組長が六代目山口組若頭に就任。山口組のナンバー1とナンバー2が弘道会出身者で占められることとなった。

これらの経緯から、後藤総長は元々から弘道会を快く思っておらず、六代目山口組体制で山健組に代わって弘道会が主流派に躍り出たことで不満が高まり、弘道会主導の強引な組織運営に納得が行かず、六代目山口組の高山清司若頭を強く批判するようになっていたとみられている。

弘道会支配への批判を強める後藤総長に対し、四代目山健組は対応に苦慮していたとみられ、事件の直前には四代目山健組が後藤総長を処分していたという。多三郎事件は、六代目山口組内での四代目山健組の体面を保つため、造反者である後藤総長に制裁を加える目的で粛清した、四代目山健組内部の犯行だったとされた。

事件の後、五代目多三郎一家『福富組』組長が四代目山健組の直参に昇格。福富組は健仁会に改称し、五代目多三郎一家の地盤を引き継いだ。

2007年07月、多三郎事件に関与していたとされている五代目多三郎一家『福富組』幹部が、愛知県名古屋市の駐車場に停車中の車内で自決する事件が発生。

2007年10月には、後藤総長が襲撃された際にボディーガートを務め、事件後に組織から処分されていた五代目多三郎一家『福富組』元幹部が、東京都台東区の路上で銃撃される事件も発生しており、四代目山健組内では不穏な事件が相次いでいた。

2008年頃から多三郎事件に関与したとみられる、健國会の組員らが相次いで逮捕されて行った。健國会若頭の川田賢一(賢仁組)組長は指名手配され、1年以上のあいだ逃走を続けていたが、2009年10月に潜伏先で発見され、組織犯罪処罰法違反の疑いで逮捕された。

2010年04月、山本会長は五代目多三郎一家総長事件の首謀者とされ、組織犯罪処罰法違反の疑いで逮捕。多三郎事件に直接関与した逮捕者は12人程だとみられるが、警察は実行犯らの容疑を裏付けるため、暴力団員ら50人以上を摘発し、携帯電話の通話記録や発信地データなどを調べ上げたとされている。



一審無罪も二審で逆転有罪、渡世から引退

2012年01月、一審の初公判が神戸地裁で開かれ、検察側は「弘道会が山口組の中核になったことを不愉快に思った被害者が、執行部批判を繰り返すなどしたため、制裁のため粛清を決めた」などと指摘。山本会長は「一切知りません」などと述べ、無罪を主張した。

2012年02月、一審の判決公判で裁判長は「被告が現場の指揮役に連絡を取ったとは断定できない。被告が関与した可能性があるが、被告の指揮で組織的に実行されたとは認められない。合理的疑いが残る」などとして、無罪(求刑懲役25年)の判決を言い渡した。検察側は判決を不服として大阪高裁に控訴した。

2012年03月、神戸地裁で開かれた健國会の川田若頭の判決公判では、裁判長は「組長が実行役に被害者の居場所を教えたと推認できる。暴力団による組織的な犯行」などとして、山本会長と実行犯らの共謀を認定し、川田若頭に懲役19年(求刑懲役25年)の判決を下した。どちらも神戸地裁で行われた同じ事件の裁判員裁判で、異なる見解が出された。

2014年01月、山本会長の二審の大阪高裁の控訴審判決公判で、裁判長は「事件は実行者の個人的利益とは言えず、上部組織との関係を含む健國会としての重大な利害のために行われたことは自明。組織の秩序維持などのために行われた可能性が高く、健國会による組織的犯行だ。被告の指揮命令に基づかずに行われたというのは、極めて不自然で通常はあり得ないというべきで、組長の指揮命令があったと強く推認される」などとして、一審の神戸地裁の判決を取り消し、山本会長に懲役20年(求刑懲役25年)の逆転有罪判決を下した。

山本会長は判決を不服として最高裁に上告し、最高裁の判決が出る前の2014年06月、渡世から引退。健國会は解散した。しかし、2015年06月に最高裁は山本会長の上告を棄却。懲役20年とした二審の大阪高裁の判決が確定した。

川田若頭は二審の大阪高裁で控訴を棄却され、懲役19年が確定。その他に起訴されていた複数の組員らには、それぞれ懲役1~13年の判決が言い渡された。

また、ボディーガードの福富組元幹部銃撃事件では、四代目山健組の直参に昇格していた福富組組長ら数人が逮捕され、福富組組長ら指示役と実行犯の3人に無期懲役、実行犯1人に懲役20年、拳銃の運搬役1人に懲役4年の判決が言い渡されている。



神戸山口組結成後、健國会の名称が復活

山本会長が渡世から引退して健國会は解散したが、健國会で若頭を務めていた袖岡勝二(袖岡総業)組長が健國会の地盤を引き継ぎ、後身組織となる須磨連合を結成。代表に就任し、四代目山健組の直参に昇格。

2015年08月末に六代目山口組が分裂して神戸山口組が結成されると、須磨連合は上部団体の四代目山健組に準じて六代目山口組を離脱し、神戸山口組に参加した。

2015年12月頃に須磨連合は健國会に名称を戻し、神戸山口組『四代目山健組』舎弟頭補佐の山本一廣が健國会総裁に就任した。山本一廣総裁は三代目健竜会会長や三代目山健組若頭補佐を務めていたが、2000年頃に破門され、神戸山口組結成後の2015年10月頃に渡世に復帰し、四代目山健組舎弟頭補佐に就いていた。

2017年頃、健國会は代替わりして二代目健國会が発足し、健國会副代表だった西野雅之(國將会)会長が二代目健國会会長を継承。2020年02月に西野会長は五代目山健組若頭補佐に就任した。

2020年07月に五代目山健組が神戸山口組から離脱すると、西野会長は複数の幹部らとともに神戸山口組に残留。神戸山口組から離脱した五代目山健組は、残留した五代目山健組幹部らを処分する状を出し、西野会長は絶縁処分された。神戸山口組に残留した五代目山健組の元幹部らは新生山健組を結成し、09月に西野会長は山健組本部長に起用されている。



収監逃れで権威ある医師と癒着疑惑

2016年06月、山本元会長は権威ある医師の診断書により、刑の執行が停止されているという疑惑を写真週刊誌FRIDAYが報じた。

FRIDAYによると、天皇陛下の執刀医として有名な、順天堂大学教授である順天堂医院院長の診察を受け、院長は山本元会長の病状について、「重病人で収監は望ましくない」などとした診断書を書き、それで当局が収監を見合わせているのではないかという。

山本元会長は刑務所への収監を免れるため、院長に高価な贈り物を届けるなどし、院長は見返りに虚偽の診断書を書いたのではないかと疑われた。最高裁で懲役20年が確定していたが、判決から1年経っても刑務所に収監されていなかったとみられる。

2021年04月、山本元会長は亡くなったと伝えられた。享年71歳。



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