この回が放送された1992年当時は、暴力団対策法が施行される直前で、暴力団を社会から排除する機運が高まっていた時期。一方で、暴対法は暴力団員の人権を侵害している可能性があるとされ、異議を唱える方々もいました。
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1992年に放送された『朝まで生テレビ』の暴対法特集の動画がアップされる、現役の組長も出演 ①
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番組の一部をピックアップします。
田原「明日からいよいよ問題の暴力団新法が実施されるわけですけども、高山さんずいぶんあちこちで、暴力団新法よくないよ、断固反対するんだと、暴力団のスポークスマンと言っていいんですか? これはどこが、なぜ、どうけしからんのですか?」
高山「あのね、まぁ一般社会で暴力団て言うてますけど、我々はね、暴力団やないねんから、実際。だから、任侠道を全うしてる一員としてね、暴力団として片付けられても結構ですよ、しかしね、人間は何をしようがやっぱり人権があるんやから、人権の問題をね、法律によってね、抹殺して行くと、言う事がね、実際にやっていいんか悪いんか、これを聞きたいわけだ」
田原「暴力団を辞めりゃあいいじゃないですか? 組解散して、辞めたらね、人権は認められると思いますよ」
高山「辞めてね、受け入れ態勢がありますか?」
田原「逆に言えば、受け入れ態勢があれば辞めますか?」
高山「ああ、辞めますよ」
高山「うちの若いもんとしてはねえ、だいたい同和関係が70%、外人関係が10%。同和の時限立法のように、国が保証でもして、何年間のうちに辞めなさいとかね、色んな方法を取るのが順次やと思いますわ。何もせんと、お前ら辞めと、明日から生活すなって言うたらこれどうしまんの?」
田原「たとえばね、今の暴力団、辞めるならなんか収容所でも作って、建物作って、そこで2年から3年間、自衛隊みたいなね、訓練やると。更生施設ですよね。やるんなら、乗りますか?」
高山「乗りますよそりゃ。協力しますよ」
高山「これ今ね、我々の組織ね、覚せい剤をすれば指切り問題やし、破門されますよ。私は自分の組織にはね、一人もおらんと、わしは自信持って言えます。今まで無いねんから」
高山「私もね、若い自分に終戦後、したことありますよ。うちの中にもね、そういう奴ようけおったわけですわ。だけどもね、覚せい剤を売って儲けた人、1人もおりません」
田原「そしたらなんで暴力団やってるんですか? そしたらはっきり言って、会津小鉄組なんて辞めてね、普通の会社にすりゃあいいじゃないですか」
高山「いや、会社にする言うたってねえ、我々がはみ出したもんをねえ、今この社会がね、受け入れる体制がありますか?」
田原「暴力団といった存在がね、この世の中にとって悪いんだと。無い方がいいんだと。暴力団は不必要悪だと」
高山「終戦後に我々がどうして来たのか。そのことは一つも言うてくれないわけや。うちの先代の本が出てますわ。そこに七条乱闘事件とかが出てますよ。誰がそのとき警察を保護したの? いろんな形でその時は、我々をね、義侠心の塊として、色んな事をさせたわけだ」
田原「それどういう事件なんですか? ちょっとねえ、誰も知らないと思いますよ。どういう事件なんですか?」
高山「これは警察(署)ん中にね、外国人が、自分の若いもんがパクられた、それを返せ言うて警察ん中どこどこ入っていって、それで連れて行きよるわけだ。そういうことを(警察が応援を)頼みに来たもんやから、うちが警察へ乗り込んで、それを全部排除したわけですわ」
七条警察署襲撃事件
1946年1月18日、京都府七条警察署は、ヤミ米買出しをしていた朝鮮人を物価統制令違反として現行犯逮捕した。連行途中、犯人は隙を見て逃走、在日本朝鮮人連盟の支部に逃げ込んだ。警察は引渡しを要求したが『警察!?我々は戦勝国民である。敗戦国の警察の言うことなど聞かない』という勝手な論理を振りかざし朝連側は拒否した。
1月24日、朝鮮人40人が七条警察署に押しかけ、署長に抗議した。また、終戦直後より朝鮮人と対立していた被差別部落出身の的屋・博徒は、「不良在日外国人、七条署に押しかける」の報に接し、急遽500人が警察の応援に駆けつけた。
このとき的屋の側には、朝鮮人排除を助けることで警察に恩を売り、その見返りとして闇市で自分たちへの取締を手加減してもらおうという意図があったとされている。そして、署長が朝鮮人に手錠をかけられようとしたとき、署員とともに的屋・博徒も署長室になだれ込み、朝鮮人を実力で排除した。朝鮮人は反撃のために約700人を集結させ、他方、七条警察署サイドは図越組組長図越利一に応援を要請し図越は子分等を総動員して迎え撃つ準備を整え、そして七条警察署近くの京都駅前で的屋・博徒と大乱闘になった。警察はMPの出動を要請し、MPが駆けつけたことで漸く沈静化した。
この事件で、被差別部落民1人、朝鮮人数人が死亡、負傷者多数にのぼった。
出典 https://ja.wikipedia.org/wiki/七条警察署襲撃事件
田原「警察のガードマンをやったわけですか?」
高山「ああまあ、そういうことです。だいたい言うたら、その当時は」
大谷「神戸もそうだったですね」
高山「神戸もそうやったわけだ。田岡一雄いう親分はね、その(戦後の)どさくさで何をした。港湾関係全部、外国人が入って来てね、荒れてた中を全部抑えていたわけですよ。良うなったわけだ。また、あの人は博徒よりも、興行とか色んな事業をしてきたわけだ。その事業を片っ端から取り上げたん、誰が取り上げたん? 暴力団の資金源や言うて全部潰してきたわけでしょ」
野村「山口組の田岡一雄さんって親分が居ましたね、あの人は1日警察署長やってるんですよ。現実に」
大谷「確かに自治体警察の頃ね、警察に自分たちの力が無かったから、いわゆる今で言う暴力団を利用した事実はね、神戸でもそりゃ京都でも大阪でもありますよ。ただね、今の時代とね、それをごっちゃにしては」
野村「それを勘違いしない。その時代も利用したけれども、今も利用しているんですよ」
大谷「まぁそこは、議論はあると思いますけれども」
村橋「逆に言うとね、任侠道というのは、弱きを助け強きを挫くでしょ? 実際にはね、逆だったんじゃないの?」
大谷「ずっと権力に」
村橋「そう権力に付いて、それで大きくなってきた」
篠崎「浜松の一力一家の、追放訴訟のリーダーであった方は、何者かに刃物による危害を加えられた」
野村「(追放訴訟のリーダーの)水野さんがやられたのは最近の話でしょ。僕が警察にお願いしたいことは、あなた方が暴力反対ということをさかんに、声高に言って、どうしてその人たちが切られるようなことするんですか。あなた方が守ってあげなきゃいけない」
一力一家組事務所撤去活動
一力一家組事務所撤去活動は、1985年(昭和60年)3月から3年後の2月まで、静岡県浜松市で行われた地元住民たちによる暴力団・四代目山口組一力一家組事務所の撤去運動。一力一家事件とも呼ばれる。
出典 https://ja.wikipedia.org/wiki/一力一家組事務所撤去活動
番組観覧者からの質問「あのー、単純な質問なんですけど、さきほどの高山さんが『自分たちは任侠なんだ』って仰っていたんですけども、暴力団と任侠っていうのは、違うのでしょうか?」
野村「あのね、元々アメリカのマフィアは始めっから犯罪を目的に集まっている。日本の場合は歴史的に任侠ってのがあって、明治維新の志士たちを助けるために、自分が投獄されたりしながら、当時は徳川体制を倒すためにやったとか、そういう人たちが日本的な文化の中に存在している。しかし、日本は博徒と言ってバクチで飯を食べてた。ところが警察の短絡思考でもってね、その人たちからバクチを取っちゃえば、ヤクザは無くなるだろうって思ってね、取り上げちゃったんですよ。そのために、暴力団って言うモンスターに変わっちゃったの。じゃあバクチが無くなったかと言えば、違うんですね。たとえば競艇やってるなんとかって先生、立派な先生が居ますよ、あれだってバクチですよ。競輪競馬だって国がやってるわけですよね。それで、その人たちから取っちゃったから、この人たちは行き場が無くなって暴力団というモンスターに変わったんです。今度は暴力団を壊滅するぞと言った時に、今の暴力団が次のモンスターに変わらないだろうか、という心配をしているわけですよ」
田原「ちょっとそれは議論のすり替えだと思うな。つまりバクチ取られたからね、モンスターになってね、悪いことせざるを得ないというのはちょっと違う」
篠崎「暴力団がですね、バクチを取られたからモンスターになったってのは、ずいぶんこれ飛躍した話でありまして、暴力団は要するに楽して安全にね大金を稼けようと思って、組織をどんどん大きくして、そして相手を怖がらせる、色々な工夫をして、こういう形になっているんです。バクチは関係ないんです」
野村「博徒がね、博徒が博徒としてあった時代はね、そんなとこは無いですよ」
安部「あのね、僕たちが若い頃ね、僕たちの親分や兄貴から教わったのはね、みすみす損なことが平気で出来る男はみんな任侠だと。魚屋さんでも、タクシーの運転手さんでも、勤め人の方でも、自己犠牲が出来る奴こそ任侠なんだと。それが出来なくなったら組長総長でもそんなものは任侠じゃないと。僕たちはそういうふうに教わったの」
高山「なんでそうなったかっていう理屈はね、バクチを取り上げられたから、バクチはね、我々は渡世でバクチをしていたわけだ。それを取り上げてね、どんどん取り上げたからね、バクチをせんから、ヤクザ大きなってしもたわけだ、逆に言うたら。バクチをさしといたら、わしらね、実際バクチしとったらね、こんな家住んでこんな車乗ってるって、そんなん夢にも思いませんよ」
大谷「高山さん個人的なことを言わせていただくと、高山さんご自身は今は組におっても、ご子息はさせてないわけでしょ?」
高山「カタギですよ」
大谷「辞めさせてるわけでしょ?」
高山「辞めてるって始めから全然関係ないでしょうー」
大谷「ということは子分たち、組の方たちにもにそういう道を歩ます、方向っていうのは無いんですか?」
高山「これはね、わしはね、はっきり言うて、組のね、今の代目の四代目ですよ、わしは。初代とちゃいますよ。だから今の義人党の高橋さんみたいに、自分が作ったもんやったらどうでも出来ますわ。わしはね、代目を受けたもんはね、そういうわけにはいかんと思いますよ。代目を継いだもんはね」
田原「だからこそ、高山さんが息子さんをカタギにさせるならば、何とかしてね、組員の連中をカタギにするように努力したほうがいいんじゃないですか?」
野村「それは田原さん無理ですよ。高山さんの息子さんは、初めからヤクザでは無いわけですよ。で、高山さんのとこに来る若い衆は初めからヤクザで来るわけですよ。いま横浜に藤木企業ってのがあります。これは有名な親分がね、先代は藤木幸太郎さんっていう有名な親分ですよ。しかし、その息子さんは立派な実業家です。ヤクザとは全く縁がありません。そして今はもうかなり大きな事業やってますよ。本質的にヤクザじゃない息子さんがいるわけです。そうじゃなくて初めからドロップアウトしてきた人と一緒にして、あんたの息子さんもねヤクザにしなかったんだから、こっちの人もヤクザにしなきゃいいじゃないかって論理は成り立たないと思う」
村橋「暴力団新法は珍しく全政党一致で可決された。共産党まで賛成した」
高山「密室でね、やってる法律を作ってしもてね、私はこれねえ政治家に全部会いました。会うたらね、全部知らんって言いまんねん。知らないと。たとえば宇野(元総理)さんも知らん言うた。私は地元のね、議員に聞いてます。伊吹文明、これも知らんて言いおった。無責任ですよ」
野村「実際にね、亀井静香さんが委員長だった。亀井静香さんに会ってはっきり聞いたの。これ憲法に、非常に難しい問題ですよと。言ったらね、俺は知らないってはっきり言いましたよ。警察庁がやったことだと」
高山「パチンコ屋の景品替えはね、これ全部ヤクザがやっとったわけだ。戦後ね、県からね、我々は嘱託の辞令もろてボート場、競輪場の警備をしとったわけだ。その時は、焼き討ちがあったり色んなどさくさがあった。治めた。お前らもう邪魔やから出ていけですよ」
高山「あの当時のプロレスね、プロレスをわしらが育てたみたいなもんだ。全国的にネットワーク組んで、そうして、今度は警察が小屋を貸さんように、体育館を貸さんように、全部手を打ちよった。もう興行できない。そういうふうにどんどんね、何やっても締められていくわけですよ。そないして生きる場所が無いのに、生きるためにはやっぱし色んなことしやな生きられへんでしょう」
野村「東京でね、小さなお店をやっているんですよ、20年間、トラブル一回も無いですよ。僕の関係しているとこ、周りの地域。何もトラブルが起きない、バランスが保たれている」
石附「バランスと仰るけどね、なにも好き好んでですね、その縄張り内のね、ヤクザにお金払ってるんじゃないわけですよ。やっぱり怖いからお金払ってる」
野村「極端な話、うちの地域の場合は、だるまさんを一個ね、一年に一回ね、1万5000円で売りに来るんですよ。私は買ってやれって言うんですよ。1万5000円でね、トラブルが何にもなければ、かえって警察に頼むより安いと、いいか悪いかは別として、バランスが保たれているところが壊れないか心配している」
大島「ついでに言えばね、たとえば労働争議の時にね、ヤクザが出て行ってね、労働争議を叩き潰したこともあるわけですよ。ヤクザは秩序を守っている側に居たんだな」
飯干「それは恐怖の均衡。恐怖の均衡の上に立ってる一つのバランス。そんなものはいつまでも容認は出来ないよ」
飯干「この法律が出たために、地滑り的に、ヤクザの状態が変わると思います。これから戦国時代に突入して、下克上の時代になると思うんですね。古い連中が一掃されて、凶悪な若い者が出てくる可能性が非常に強い。これを大変心配しております」
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yamaguchi893
がしました