小林治

2023年12月28日に、六代目山口組若中だった二代目難波安組の小林治組長が亡くなったという。小林組長は1985年に四代目山口組の直参に昇格し、大阪府堺市を拠点とした二代目難波安組を束ね、最盛期には約500人を擁する武闘派組織を作り上げたが、2009年に引退していた。

二代目難波安組に密着したドキュメンタリー番組が1989年に放送されていて、後にYouTubeにアップされたことから大きな話題となり、ヤクザ関係の番組としては名作中の名作として語り継がれている。この番組の影響で二代目難波安組はネットミーム化しており、暴力団に詳しくない人でも難波安組のことは知っているというほど知名度がある組織だった。


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独立組織の土井組から山口組へ

小林治組長は1939年03月生まれ、若い頃に大阪府の独立組織だった土井組の傘下組織の難波安組に加入したとみられる。

土井組は昭和初期頃に『土井熊』と呼ばれた永田熊吉が初代組長を務めた博徒組織で、大阪府大阪市住吉区~南河内あたりに勢力を持ち、後に五代目山口組若頭となる宅見組の宅見勝組長や、後に大阪府知事・大阪市長となる橋下徹の父親と叔父が所属していた。

土井組は1971年に西田茂夫が二代目を継承、1983年に河合貞行が三代目を継承し、本拠を大阪府河内長野市に移したが、その後に自然消滅のような形で解散したとされる。

難波安組は初代の松本安男組長が設立した博徒組織で、大阪府堺市を拠点としていた。松本組長が引退すると、小林組長は30代の若さで二代目難波安組組長を継承。

その後、小林組長は二代目難波安組を率いて土井組を脱退し、兵庫県西宮市に本部を置いた三代目山口組『桜井組』へ移籍した。


山口組の直参に昇格

桜井組の桜井隆之組長は、兵庫県神戸市に本部を置いた三代目山口組『松本組』の出身。松本組の松本一美組長は1949年頃に三代目山口組へ加入した古参組長で、1963年には三代目山口組舎弟頭に抜擢され、三代目山口組の最高幹部だった。

桜井組長は松本組で若頭などを歴任し、1970年頃に三代山口組の直参へ昇格。1984年06月に四代目山口組が発足すると舎弟に直ったが、直後の1984年09月頃に病没したとみられている。

桜井組長が亡くなった後、桜井組には跡目候補の実力者が何人も居たため、一本化できずに桜井組は解散した。桜井組で組長代行などを務めた小林組長と、舎弟頭補佐を務めた中野組の中野雅巳組長が、1985年11月にそれぞれ四代目山口組の直参に昇格し、四代目山口組若中に就任した。

二代目難波安組と中野組は同じ大阪府堺市に本部を置き、桜井組でともに最高幹部を務め、同時期に山口組の直参に昇格したこともあって、小林組長と中野組長は盟友関係にあったとみられている。


二代目難波安組の本部事務所


抗争で複数回逮捕、長期服役

小林組長は抗争などで複数回逮捕されていて、時期は不明だが殺人未遂の罪で3年半のあいだ服役したとみられる。出所後には、1968年、1970年、1976年の3回にわたって恐喝、凶器準備集合、銃刀法違反、監禁致傷の罪で起訴された。

小林組長は1972年08月から1977年06月まで肺結核、慢性肝臓病、仮性狭心症などの病名で大阪府堺市にある山口病院に入院していた。病院側は大阪地裁堺支部に対し、『(組長は)現在入院中で、今後1年間は入院加療のため出廷できない』とする診断書を提出していて、小林組長は病気を理由に裁判に出廷していなかったという。

表向きは病気の治療のために入院していたが、夜には外出して酒を飲みに行ったり、1975年05月にアメリカへ1週間旅行したり、1976年01月には病院を抜け出して対立組織の青山組の組長を監禁し、鉄パイプで殴るなどの暴行を加え、大けがを負わせる事件を起こしていた。

1976年04月には病院の玄関を出た小林組長が、他の暴力団組員に拳銃で数発発砲される事件も発生。小林組長は身をかわして無事だったが、病院のガラスが割れる被害がもたらされた。

小林組長は入院していた個室に電話を引いて抗争事件を指揮していたとみられ、1976年07月には、二代目難波安組の組員らが大阪府堺市の住宅密集地で青山組の組員らと銃撃戦を起こしている。

小林組長は病院と癒着し、病気を理由に裁判を先延ばしにし、入院先を隠れ家として使っていたとみられている。小林組長や二代目難波安組の組員らは、1975年12月~1976年01月まで、病院の主治医や事務長やその家族らと一緒にヨーロッパ旅行にも出かけていた。

病院との癒着や偽装入院が発覚し、一連の抗争事件で小林組長は約10年の長期服役を務めることとなった。二代目難波安組の組員らは、抗争の他に賭博やノミ行為などの容疑も合わせて合計93人が検挙された。

小林治 3
偽装入院が発覚した小林組長の新聞記事


東組『二代目清勇会』との抗争

1982年、三代目山口組『桜井組』傘下だった二代目難波安組は、大阪の独立組織である東組と大阪府堺市の喫茶店へのゲーム機のリースをめぐってトラブルとなり、抗争に発展した。

二代目難波安組の組事務所と、同じ堺市にあった東組『二代目清勇会』の組事務所の、双方を互いに襲撃し、桜井組系組員が大阪市西成区にある東組の本部事務所を銃撃した。

その後、東組は後に二代目東組組長となる滝本博司が、兵庫県西宮市にある桜井組の本部事務所に出向き、警戒中の警察官に「おはようさん」と声を掛けた後、桜井組本部へ上がり込んで拳銃を4発発砲する事件を起こした。

桜井組本部での銃撃事件から3日後、他団体のトップらを仲裁人として和解が成立した。小林組長はこの抗争の時は服役中で、1980年代後半に出所したとみられている。


密着番組で話題に、ネット上で反響

1989年06月頃、フジテレビの情報番組『なんてったって好奇心』にて二代目難波安組に密着した『実録 日本の裏世界~極道~』という番組が放送された。

この番組では、四代目山口組若頭だった二代目山健組の渡辺芳則組長が五代目山口組を襲名する前後に撮影されていて、二代目難波安組の組事務所の内部に密着し、最高幹部らへのインタビュー、若頭の放免祝い、傘下組織への訪問取材、組長がゴルフへ出掛ける様子、ベンツの新車を納入する様子なども放映されていた。

小林組長の他、籠谷武若頭、大西勝治本部長、西尾英明事務長、米岡太一舎弟、林龍司若中、他の組員や部屋住み、小林組長と盟友の中野組長も登場し、ノンフィクション作家の軍司貞則のインタビューに答えていた。

番組内で、籠谷若頭の『生まれ変わったら坊ちゃんに生まれたい』、大西本部長の『生命保険には入れませんのや』、西尾事務長の『(放免祝いで集まった金額は)それは言えないな、それ言うたら税金掛かる』、米岡舎弟の『アウトローいうのはケンカに負けたら終い』、二代目難波安組傘下の米岡興業の原田若頭の『ヤクザいうたら排気ガスやね』などの発言が話題となった。

その他にも、二代目難波安組では近所の喫茶店にコーヒーの出前を1日に100~200杯も注文しており、電話で注文する組員が『自分とこコーヒーぬるいわ、あっついにして持ってきて』と要求したり、すき焼きを作っていた部屋住みに組員が『この前より甘くやってくれるか?』と味の好みを伝えたり、常備されているおしぼりを1日に200本以上も使い切ったりする様子も見所となっている。

番組の終盤には、盃事で1万4000人も媒酌している伝説の媒酌人であり、四代目山口組や五代目山口組の襲名式も務めた、大阪の港を拠点とする大野一家『義信会』の津村和磨会長のインタビューで締め括られている。

バブル景気で日本経済が上昇し、国全体として活況に溢れていた時期で、資金的にも勢力的にも勢いがあった頃のヤクザ組織の自然体な姿を垣間見ることが出来る番組だった。

番組の放送後、小林組長は五代目山口組若頭補佐を務めていた中野会の中野太郎会長に呼び出され、叱責を受けたというウワサがあるが、真偽は不明。

放送から15年以上経った2006年頃に、動画共有サイト『YouTube』にて番組がアップロードされ、多くの人の目に触れることとなり、登場する組員らの強烈なキャラクターなどが視聴者に強いインパクトを与え、現在に至るまでインターネット上で大きな反響を呼び続けている。

匿名巨大掲示板の5ちゃんねる(旧・2ちゃんねる)では、2001年の段階でこの番組について言及されていて、YouTubeに番組がアップされてからは二代目難波安組の関連スレッドが盛り上がり、現在までこの1本の番組を基盤としたスレッドが300以上も続いている。

難波安組ドキュメントビデオについて

1 名前:滑川  投稿日:2001/05/22(火) 18:13

今から12年前に関西テレビで放送された山口組直系二代目難波安組に密着した番組を録画したビデオを持ってるんですけど、これって価値ありますか?

番組は若頭の籠谷氏が刑務所から出所して来る所から始まって山口組五代目との兄弟の杯を交わしに行く小林治組長や配下の米岡興業の幹部の方々等も登場します

特に印象に在るのは篭谷若頭が「生きて辛い懲役でも13年~15年頂けて帰ってこれるんやからね、殺られる前に殺るっちゅう事ですわ」というセリフが強烈でした

極道社会にここまで密着した番組は後にも先にもこれだけだと思います

http://piza.2ch.net/4649/kako/990/990522790.html

小林治 2
テレビ番組に出演した小林組長


組織の衰退、引退へ

小林組長は五代目山口組で引き続き若中を務め、後に五代目山口組組長秘書に起用された。2005年08月に司忍組長が六代目山口組組長を襲名して六代目山口組が発足すると、小林組長は引き続いて六代目山口組若中を務めた。

二代目難波安組は最盛期には直参が約100人、傘下組織の組員を含めて計約500人が所属していたとされ、堺市にある暴力団組織としてはトップクラスの勢力を誇っていたが、徐々に勢力は減少して行ったとみられる。

2007年頃には、二代目難波安組の組員が『高石のウルトラマン』を称する人物から200万円を借りたまま返さないことなどから、トラブルとなったとされる。

この人物は、20代前半の頃に二代目難波安組に出入りをしていたが、正式な組員ではなかったという。NPO法人を運営し、右翼活動もしていたとみられ、自身のブログに組員との借金トラブルの経緯、山口組本家に電話を掛け続けたり、日本刀を持って二代目難波安組の本部に殴り込みに行ったことなどを綴っていた。

2008年12月には、小林組長の盟友だった中野組長が引退。中野組は解散したが、2015年に六代目山口組から分裂して結成された神戸山口組で二代目中野組として復活し、名跡が継がれている。

2009年09月、小林組長は引退し、二代目難波安組は解散した。解散時の組員はわずか数10人だったという。解散後、二代目難波安組の相談役だった鹿田組の鹿田次郎組長らが、同じ六代目山口組傘下組織だった二代目宅見組へ移籍した。

2023年12月28日、小林組長は亡くなったと伝えられた。享年84歳。


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