櫻井總家ロゴ

静岡県の的屋系組織である十代目櫻井總家は、神奈川県横浜市の飴徳一家(飴徳連合会)をルーツに持ち、関東の極東会とも同門で、一時期はその2組織らと合流して勢力を誇った。暴排条例などの影響で祭りの屋台から排除され、勢力が衰退し、2023年05月に解散した。


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櫻井總家の経歴、飴徳から独立

櫻井總家のルーツの始まりは、神奈川県横浜市の的屋組織である飴徳一家(現・飴徳連合会)で、飴徳一家初代の竹内徳次郎は大阪出身だが横浜へ流れ着き、明治時代に飴売りのテキ屋として活動した。

その飴徳一家の若衆だった櫻井庄之助が、1916年に横浜から静岡県沼津市に拠点を移し、1921年に櫻井一家(現・櫻井總家)を結成した。櫻井庄之助の子分には、後に極東会を設立する関口愛治が居た。


極東愛桜連合会の結成

1961年、同じ一門の出身である横浜の飴徳一家、沼津の櫻井一家、東京の関口一家の3家を中心に、三重県四日市市の橋本組(現・愛桜会)なども含め、的屋組織の連合体である極東愛桜連合会が結成された。

極東愛桜連合会のトップには関口が就き、地方を旅しながらテキ屋の行商を展開するなどして勢力を拡大し、26都道府県で185団体、4500人以上の構成員を有する巨大組織となった。

1967年、警察の大規模な暴力団取締作戦『第一次頂上作戦』により、極東愛桜連合会は解散を余儀なくされた。

その後、極東愛桜連合会に加入していた飴徳一家は飴徳連合会として、櫻井一家は極東櫻井總家連合会として、関口一家は関口会として、橋本組は愛桜会として再結成された。


一本独鈷で再スタート

飴徳連合会は指定暴力団に指定されずに存続したが、2020年頃に解散したとみられている。関口会は1979年に極東関口会、1990年に極東会と改称。指定暴力団に指定され、国内最大の的屋系暴力団組織となっている。

橋本組は、1978年に三重県にある博徒や的屋組織など約50団体を集結し、愛桜会を結成。1990年に五代目山口組に舎弟として加入し、現在も六代目山口組の二次団体である。

極東櫻井總家連合会は、分家などの一家を統合し、最盛期には傘下約30組織、構成員約500人を抱える組織となり、1993年には指定暴力団に指定された。


勢力減少、衰退

2004年頃から幹部や組員の引退や、同じ静岡県に本部を置く五代目山口組の後藤組や芳菱会など、他団体への移籍などが相次ぎ、一家の分裂もあって勢力が減少。残ったメンバーで櫻井總家に改称して存続したが、2005年には指定暴力団から外れるほど、活動実態が確認できなくなっていた。

2010年頃から全国の自治体で暴力団排除条例が施行されると、祭りなどの屋台から暴力団を締め出す動きが加速。指定暴力団からは外れているものの、的屋系の暴力団とみなされ、本職である露天商の仕事がしにくくなって行った。


祭りから締め出し、解散へ

2022年11月、静岡県の祭りや花火大会で、暴力団であることを隠して別人名義で露店を出店していたとして、六代目山口組『藤友会』組員やその妻、静岡県の露天商組合理事長などが詐欺の疑いで逮捕された。

2023年03月には、露天商組合を実質的に支配していたとみられた十代目櫻井總家総長も逮捕され、暴力団が祭りに関与するのは困難を極める状況となった。

2023年05月、十代目櫻井總家総長は静岡県警富士警察署に出向き、解散届を提出。十代目櫻井總家は約100年の歴史に幕を下ろし、解散した。解散時の組員はわずか数人だったという。




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