高山誠賢

八代目会津小鉄会の高山誠賢(高山義友希)会長は四代目会津小鉄会会長の実子で、実業家として活躍した後、2003年に五代目山口組『弘道会』に加入。2009年に六代目山口組の直参に昇格するが、2010年に同和団体会長を恐喝したとして逮捕され、2015年に懲役8年が確定。

病気の容体が重篤なため収監が見送られていたが、2017年に虚偽の診断書で収監逃れをしていた疑惑が浮上。公立大学の学長や附属病院の院長が関与した疑いで大きな騒ぎとなり、高山総長はその後すぐに刑務所に収監され、2023年に出所。

2024年09月に六代目山口組から離脱し、八代目会津小鉄会会長を襲名した。


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高山誠賢会長の経歴、40代で渡世入り

高山誠賢(高山義友希)会長は1957年01月生まれ、京都の独立組織である会津小鉄会の四代目となる高山登久太郎会長の実子。東海大学教養学部に入学し、空手部に所属した。空手は五段の腕前を持つという。1982年に大学を卒業し、在日韓国人系の信用組合である滋賀商銀(現・近畿産業信用組合)に入社。

退社後に起業し、不動産会社、建設会社、スポーツクラブ、飲食店、ビル管理会社、警備会社など、様々な業種の会社を経営する実業家となり、高山グループを築き上げた。

高山登久太郎会長が1997年に引退し、2003年に亡くなると、高山会長は五代目山口組若頭補佐だった司忍組長が率いる、愛知県名古屋市に本部を置く弘道会に加入。46歳でヤクザ稼業入りした。

一説に、高山会長は父である登久太郎の威力を頼りに建設業や金融業を営んでいたが、不動産事業を通して計画した石垣島でのリゾート開発が失敗し、数100億円の借金が出来てしまい、そのことが会津小鉄会内における登久太郎の権威の失墜を招き、登久太郎は引退に追い込まれたとされる。

1997年に登久太郎が引退すると、父の威力を頼れなくなった高山会長は地元有力関係筋との間で不和が多発するようになってしまったため、苦境を打開すべく意を決して2003年に弘道会へと加入したとされる。

高山会長は渡世名を高山誠賢と名乗り、弘道会舎弟に就いた。自身で滋賀県大津市に本部を置く淡海一家を立ち上げて総長に就任した。

2005年04月に弘道会が代替わりし、高山清司若頭が二代目弘道会会長に就任。1人親方となった司忍組長は弘田組組長を名乗り、05月には長らく空席だった五代目山口組若頭に就任した。

2005年08月に五代目山口組の渡辺芳則組長が引退し、司忍組長が六代目山口組組長を襲名。高山清司会長は六代目山口組若頭に起用され、山口組本家のナンバー1、2が弘道会出身者で占められることとなった。

これにより山口組内部の勢力図が塗り替えられ、三代目山口組時代から長らく主流派であった山健組系組織に代わり、弘道会系組織が主流派に躍り出た。

高山会長は二代目弘道会舎弟頭補佐を務めた後、2009年01月に内部昇格で六代目山口組の直参に昇格。六代目山口組若中に就いた。

高山義友希


同和団体会長から4000万円恐喝、懲役8年

高山会長は2005年07月~2006年12月の間、同和団体『自由同和会』副会長・京都府連会長で、建設業や不動産業を営む上田藤兵衛さんを恐喝し、土木建設事業のみかじめ料などとして計約4500万円を受け取ったとして、2009年12月に指名手配され、2010年04月に恐喝の疑いで逮捕された。

この事件は、京都の料亭で淡海一家系幹部が上田さんと面談し、幹部が仕事を回すよう脅しをかけた。高山会長や高山清司若頭も上田さんと会い、高山若頭は「よろしく頼む」などと言った。その他、上田さんは幹部らにホテルに軟禁されて詰問を受けたり、上田さんが乗る車が銃撃されるなどの事件も起こったという。

それから上田さんは、淡海一家系の不動産会社から1000万円単位の金銭を要求されるようになり、計約4500万円のみかじめ料を支払ったとされる。企業舎弟になったと勘違いされた上田さんは、警察に被害を告発し、高山会長、高山清司若頭、淡海一家系幹部らが逮捕された。高山会長は逮捕から約2年後の2012年05月に保釈された。

2013年06月に一審の京都地裁で、裁判長は「暴力団の威力を背景に、容易に逆らうことのできない一般市民を恐怖させて金員をむさぼった。共犯者らによる脅迫や金の要求を指示・了解していた。不合理な弁解に終始しており、何ら反省の態度は見受けられない」などと述べ、高山会長に懲役8年(求刑懲役10年)の判決を言い渡した。

2014年07月に二審の大阪高裁で控訴棄却、2015年06月に最高裁で上告が棄却されて刑が確定していた。

この事件では、高山清司若頭も恐喝の疑いで2010年11月に逮捕され、高山若頭は2011年07~10月まで病気を理由に勾留停止。2012年01月に再び勾留停止され、2012年06月に保釈保証金15億円で保釈。2013年03月に京都地裁で懲役6年(求刑懲役10年)の判決、2014年02月に大阪高裁で控訴棄却、2014年05月に最高裁への上告を取り下げ、2014年06月に収監。2019年10月に服役を終えて出所している。

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虚偽の診断書で収監逃れ疑惑が発覚

高山会長はいくつかの病気を患っていて、公判中の2014年02月から京都府立医科大学附属病院を受診し、2014年07月に腎臓移植の手術を受けて入院。2015年08月に大阪高検からの病状の照会に対し、病院長らが「高山会長はBKウイルス腎炎やウイルス性腎炎を患っており、腎炎発症や感染症の危険があり、医療態勢が乏しい収容施設での生活は難しい」などとする回答書を提出した。

2016年02月には高山会長の不整脈の治療を行っていた民間病院の医師が、「高山会長は重症心室性不整脈を患っており、刑務所収監により不整脈が重篤化することが予測される」とする診断書を大阪高検に提出。高山会長は病状が認められ、刑の執行が停止された。

2017年02月、高山会長は実際には服役可能な健康状態で、主治医が虚偽の診断書を作成して服役から免れているのではないかという疑惑が浮上。ニュースで報道されて大きな騒ぎとなった。

大阪高検や警察が京都府立医大病院と民間病院から検査データを含む回答書を取り寄せ、複数の専門医に照会した結果、ほぼ全ての医師が「収監に耐えうる」とする見解を示したことから、高山会長の収監の時期を検討していたとされる。

高山会長の体調は回復し、外出して飲酒する様子も目撃されていたという。2017年02月に大阪高検は高山会長に出頭を要請し、高山会長は京都地検に出頭。大阪刑務所に収監された。

警察は、収容を逃れる目的で実際の容体とは異なる診断書が作成された疑いがあり、虚偽の診断書を作成したとして京都府立医大病院、京都府立医大学長の自宅、京都府立医大病院長の自宅、民間病院などを家宅捜索した。関係者から任意で事情聴取を行い、捜査を進めた。

高山会長は京都府警OBの紹介で京都府立医大学長と知り合い、数年前から京都の祇園などの料亭で会食を重ね、学長は暴力団だと知りながら学長室で面会するなど親交を深めていた。京都府立医大病院長も数年前から付き合いがあったという。

京都府立医大病院は当初は受け入れを拒んでいたが、病院長ら幹部の判断で受け入れを決め、病院長と学長立ち合いのもと腎臓移植手術が行われたとされている。

学長は「(高山会長と)会うかそんなもん。(面識も)あらへん」などと述べていたが、「飲食店で偶然2回ほど合った」と発言内容が変わり、大学側の調査では複数回会食したことを認めたという。病院長は「(診断書の偽造は)全くない。医師の立場から公正、適切に作成した」として疑惑を一蹴したが、元担当医師は「院長の指示で診断書を作成した」と警察の任意聴取で話したという。

民間病院の医師とは父の登久太郎が診察を受けていた縁で不整脈の治療を受けていて、民間病院の医師は「虚偽ではない。医師として患者を守るためにやった。依頼もない」などと述べる一方、警察の任意聴取には現金や商品券などを受け取ったことを認めた。

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虚偽診断書疑惑で医師が起訴されるも無罪

2017年03月に民間病院の医師、元医事部長、会津小鉄会系組員が虚偽診断書等作成の疑いで逮捕され、京都府立医大学長と京都府立医大病院長は辞任した。10月に京都府立医大病院長、元担当医師が虚偽有印公文書作成の疑いで書類送検された。

2017年10月、京都府公立大学法人の調査委員会は疑惑について調査結果を発表し、「収監に耐えられないとした判断は医師として妥当」とした一方で、「報告書の根拠となる診療録への記載が十分とは言えない」と結論付けた。高山会長と学長の親交について調査委員会は認め、「社会通念上、許されるものではないが、金品の授受などは確認できなかった」とした。

逮捕や書類送検されていた5人は、2017年04月に民間病院の医師が起訴され、2017年06月に民間病院の元医事部長と会津小鉄会系組員が不起訴処分、2017年12月には京都府立医大病院長と元担当医師も不起訴処分となった。

ただ1人起訴された民間病院の医師は、2019年03月に開かれた一審の京都地裁の判決公判で、裁判長は「収容のストレスで病状が悪化する可能性を考慮したことなどは不合理とは言えず、診断内容が医学的、客観的に真実に反するというには合理的疑いが残る」とし、金品の授受については「そのような動機の存在があるとしても、虚偽の回答をしたと推認させる力は極めて弱い」として、無罪判決が出された。

2019年11月に開かれた二審の大阪高裁の判決公判でも、裁判長は「診断根拠には脆弱性が認められるが、医師としての経験に基づく推論をした。説明不十分な記載をしたにとどまる」などとして、一審の無罪判決を支持。医師の無罪が確定した。

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刑務所内での診療情報の開示を求めて提訴

刑務所への収監が見送られていた高山会長だが、虚偽診断書の疑惑が浮上した直後の2017年02月に出頭し、大阪府堺市にある大阪刑務所に収監された。

2019年に高山会長は、刑務所で受けた治療のカルテなどの診療情報の開示を本人にも認めていないのは不当だとして、国を相手に不開示処分の取り消しを求め、医療情報を請求する訴えを地裁に起こした。

刑務所の医師は腎臓の専門医ではく、2019年04月に高山総長は外部の医師の診察を受けるため、受刑中に刑務所内で受けた血液検査の結果、処方薬の詳細、診療記録などを開示請求した。しかし刑務所側は『刑の執行に関する個人情報は開示請求の適用外』とする個人情報保護法を理由に不開示とし、カルテは高山総長には公開されなかった。

大阪刑務所を管轄する大阪矯正管区では、刑務所内にある医療施設で治療を受けた受刑者のカルテなどの診療情報は、法律で開示できない『刑の執行に関する情報』に含まれるとして扱われており、本人が開示を求めても認めない運用が行われているという。

国連の規則では、受刑者が自己の医療情報にアクセスする権利が保障されることは最低基準とされており、不開示処分は違法だとする一方、国連の答弁書では、処遇に関する個人情報を開示対象とすると、収容歴の有無などが他人に明らかになり、更生保護を図る上で受刑者が不利益になるおそれがあるなどとしている。

2020年、一審の大阪地裁で裁判長は「服役中の医療情報は刑の執行に関わる個人情報に当たり、開示の必要は無い」として、高山総長の請求を棄却する判決を下した。2021年04月、二審の大阪高裁で裁判長は「診療情報は生命と健康に直結する個人情報であり、合理的な理由なしに制限されるべきではない」などとして、請求を棄却した一審の判決を見直し、国の不開示決定を取り消す判決を下した。

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刑務所内での新型コロナ対策を求めた提訴も

2020年に高山会長は、刑務所内での新型コロナウイルス対策が不十分だとして、刑務所内で制限のないマスクの使用や消毒液の設置など、環境改善や感染防止対策を求める人身保護請求を地裁に申し立てた。

2020年の初頭から世界中で新型コロナウイルス感染症が猛威を振るっていて、日本でも感染対策などが徹底されていた時期だった。大阪刑務所では受刑者にマスクが2枚配布されていて、刑務作業中はマスクを着用するものの、2020年10月下旬までは居室や移動中でのマスクは認められていなかった。整列や身体検査の時に密集することがあり、刑務作業時の受刑者同士の距離も十分には確保されておらず、刑務作業場や居室に消毒液を設置しておらず、定期的な換気もされていないとされた。

高山総長は『病気の影響で免疫力が落ちていて、新型コロナウイルスに感染すると病状が重篤化するリスクが高いのに、十分は感染対策がされていない。刑務所は3密になりやすく、生命が重大な危険に晒されている』などと主張。

法務省矯正局は『感染対策は矯正施設における新型コロナウイルス感染症感染防止対策ガイドラインに沿って行われている』、大阪刑務所は『受刑者は石鹸でいつでも手が洗え、作業時には受刑者同士が対面にならないよう配慮している。消毒液は受刑者が飲む危険性がある。移動中のマスクは保安上の理由で認めていない』などとコメントした。

2021年03月、一審の大阪地裁堺支部で裁判長は『刑務所内では一定の感染対策が取られており、蔓延の危険があるとまでは言えない。消毒液は設置すると受刑者が飲むなどの危険性を否定しがたく、代わりに手洗いやうがいが指導されている』などとして、高山会長の人身保護請求を棄却した。

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出所後、会津小鉄会会長を襲名

2023年08月、高山会長は刑期を終えて刑務所から出所した。2009年12月に指名手配されて以降、約13年8箇月ぶりに本格的に活動を再開することとなった。その後に六代目山口組組織委員に就任。

2024年09月、高山会長は京都府京都市に本部を置く会津小鉄会の八代目会長を襲名することが決まった。

会津小鉄会は、1868年に会津小鉄こと上坂仙吉が京都府で結成した老舗の博徒組織。1935年に二代目の上坂卯之松が亡くなると会津小鉄の名跡は途絶えたが、会津小鉄の系譜を受け継いでいる二代目中島連合会の図越利一会長が1975年に三代目会津小鉄会会長を襲名。京都で最大規模の暴力団組織となった。

高山会長の父の登久太郎は1986年07月に会津小鉄会の四代目会長を継承し、1997年02月に引退している。

2017年01月、六代目会津小鉄会の内部でクーデターが勃発。クーデターの背景には六代目山口組と神戸山口組の分裂抗争が関係していて、六代目会津小鉄会の馬場美次会長が神戸山口組と交流があるため、六代目山口組が会津小鉄会から神戸山口組の影響力を排除する目的で、原田昇若頭を担いで代替わりさせようとしたとみられている。

両山口組の介入もあって、会津小鉄会は馬場会長を支持する親神戸山口組の勢力と、原田若頭を支持する親六代目山口組の勢力に分かれた。クーデター騒動後、馬場会長は金子利典顧問に七代目を譲り、七代目会津小鉄会が発足したが、原田若頭も六代目山口組を後見として七代目会津小鉄会会長を襲名。2つの七代目会津小鉄会が並立する状態となった。

2021年01月、2つに分裂していた七代目会津小鉄会は合流し、金子利典会長、原田昇若頭の体制で一本化された。最盛期には約2000人もの構成員を有していたが、現在は約40人程にまで減少しているとされる。

2024年09月末、高山会長は六代目山口組を離脱し、八代目会津小鉄会会長を襲名した。会津小鉄会は六代目山口組の傘下に入るわけではく、独立組織のまま。高山会長が率いる淡海一家は代替わりし、上野隆若頭が二代目淡海一家会長を継承。淡海一家も六代目山口組から離れ、会津小鉄会の傘下となった。




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