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出典 http://takabeya.com/?page_id=78 

2015年09月11日の昼頃、Twitter上で竹中組の復活という情報が流れる。 

情報を発信したのは暴力団に詳しいジャーナリストの鈴木智彦と西岡研介の二人だ。この二人は今回の山口組分裂騒動に関して有力な情報をTwitterで発信しており、その動向が注目されていた。 

竹中組の復活とは一体どういうことなのか、そもそも竹中組とはどういう組織なのかまとめてみた。 



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竹中組というのはどのような組なのか

竹中組は1960年頃、後の四代目山口組組長となる竹中正久が結成した暴力団組織。兵庫県姫路市が本拠地である。

1961年、竹中は三代目山口組組長・田岡一雄の盃を受け、竹中組は山口組の二次団体になった。竹中は竹中組を率いて数々の抗争で功績を挙げ、勢力を拡大して行った。

1971年に竹中は三代目山口組若頭補佐に就任。

1981年に田岡組長が死去すると、竹中は三代目山口組若頭に就任。

1984年には四代目山口組組長を継承。暴力団社会の頂点を極めた。

竹中組は最盛期には2000人の構成員を有していたと言われている。

その後、竹中の暗殺、山一抗争、山竹抗争と続き、竹中組は山口組を離脱。勢力を失い、今は名跡が途絶えていたようだ。


鈴木智彦による【ママにもわかる竹中組復活の衝撃】






























これらの経緯について、簡単なまとめ

三代目山口組組長の田岡一雄が死去。
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跡目とされていた若頭の山本健一(初代山健組組長)も死去。
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跡目に山本広(山広組組長)で決まりそうになると、反対派が反発。
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山本広を推す山広派と、竹中正久(竹中組組長)を推す竹中派に分かれ対立。
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竹中派は田岡文子未亡人を担ぎ出し「おとうちゃんは竹中って言ってた」と言わす。
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四代目山口組組長に竹中正久が決定すると、山広派は離脱し一和会を結成。
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山口組と一和会との抗争『山一抗争』が勃発。
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四代目山口組組長の竹中正久が一和会に暗殺される。
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抗争がさらに激化。
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稲川会の仲裁もあり、山口組と一和会は山本広の引退と一和会解散で手打ち。死者25名という壮絶な抗争が終結。
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一和会傘下の組員の多くは山口組に戻る。
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五代目山口組に渡辺芳則(二代目山健組組長)が担がれ、五代目体制へ移行。
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しかし竹中組は竹中親分を殺された怒りが収まらず、独自に報復を続ける。
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これが五代目山口組執行部の怒りに触れ、竹中組は山口組を離脱。
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今度は山口組と竹中組の抗争『山竹抗争』が勃発。
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山口組の攻撃で竹中組は次々と組員が抜けて行き、竹中組は事実上ほとんど機能しなくなる。
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その後、竹中組の残党は山口組に分散して戻っていった。


竹中組の復活が意味するもの

今回その竹中組の名跡を復活させ、現在六代目山口組幹部で二代目柴田会会長・安東美樹に継がせる予定だという。

神戸山口組は分裂した大義名分として『山口組の歴代組長を冒涜した』ということを挨拶状に書いている。

山口組分裂で離脱した山健組は五代目山口組組長を輩出している。六代目山口組は四代目山口組組長を輩出した竹中組を復活させることで、神戸山口組の大義名分を崩し、六代目山口組側に正統性を高める意味合いがあるようだ。

竹中組の元組員や竹中組のファンだった一般市民などを、六代目山口組の味方に付けようという意図もあるかもしれない。

それぐらい竹中組は暴力団社会の中では伝説となっており、名跡の復活は大きなインパクトがあるようだ。


参考 https://twitter.com/yonakiishi
参考 https://twitter.com/biriksk
参考 http://togetter.com/li/872344
参考 https://ja.wikipedia.org/wiki/山竹抗争
参考 https://ja.wikipedia.org/wiki/山一抗争
参考 https://ja.wikipedia.org/wiki/竹中正久
参考 https://ja.wikipedia.org/wiki/竹中武
参考 http://takabeya.com/?page_id=367



 ⇒次回の記事 
六代目山口組『二代目竹中組』を継承した『安東美樹』組長の経歴
http://yakuza893.blog.jp/andomiki.html

 ⇒次々回の記事 
竹中組の名跡復活の記事が出る、これで復活は確定なのか
http://yakuza893.blog.jp/takenakagumi2.html





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